スポンサーサイト
- 2020.05.10 Sunday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
高名な古地図のディーラーが、図書館の稀覯本から盗みを働き売り捌いていた。
――そんなスキャンダルの渦中の人、フォーブス・スマイリーが本書の主役。
「非常に能力のある者が、同時に大きな欠陥を持っている。私はようやく物語の皮肉を
理解するようになった。ここにいるのは地図を盗んだ男だ。そしてこの男は明らかに、
自分が歩んできた道を踏みはずしていた。地図の何が彼をそれほどまでに魅了したのか。
おそらくそれは私が引きつけられたものと同じだったのだろう――コントロールの感覚。
生活にそれがどれほど大きな力を及ぼすかはともかく、それは地図が付与してくれる
環境への支配感だった。スマイリーの話を調べている内に私は、彼が盗んだ地図を
作成した人々の物語――彼らが抱いた情熱や競争心――にも同様に好奇心をそそられた。
スマイリーや彼を取り巻く連中と話をしていて、私は自分自身が今、一人の男、一つの
専門的職業、そして一つのオブセッション(強迫観念)を盛り込んだ、一枚の地図を現に
描きつつあることに気づいた」。
知れば納得、これほどまでに窃盗に適した素材も他にそうない。
世の蒐集の大半と一線を画すのは、何せ地図のほとんどが印刷物であるという点にある。
「図書館の所蔵印のように明らかに出所の分かるものを別にすれば、特定の地図の複製が
どこから来たものなのか、その出所を言い当てることは非常に難しい」。たとえただ一点しか
現存が確認されていなくとも、他の品が発掘されないとも限らない、ゆえに白を切る余地は
いかようにもある。そして重要なことに「図書館には最上の地図があり、しかもそれを守る
ためのお金がない」。
今日高額取引の対象となる地図は、往々にして図法や測量技術の満足に発達していない
時代のもの。例えば1世紀のギリシャ、プトレマイオス『ゲオグラフィア』によれば、地球の
全長は18000マイルで、アジアとヨーロッパの距離はわずか2500マイルでしかない。
しかし、いかに誤謬をあげつらおうとも、コロンブスがこの地図を頼りに大西洋を渡った
事実を消し去ることはできない。世界の地理を紙の上で表示する、「この書物が大胆にも
提示していたのは――人間の心は数学的正確さで可視の世界を理解しうるということだ」。
時にミリオン越えを記録する紙切れ、ただし今日の地理の授業にすら使えるはずもない、
しかし「スマイリーによって盗まれた地図は探検家、商人、権力者たちの夢を育んだ。
……地図は国家の拡張と帝国建設の進路を示している。そして英国支配の台頭、新国家の
建設、先住民の消滅を記していた。また地図は知識が終わり、想像力がはじまる境界線を
描いている。未知の世界を探検し、空白の土地を定義づけようとする人間の永遠の衝動を
表していた」。
数百年の時の流れに変色した紙の向こうに、意味を透かし読み解いてみせる。
それは単に古をたどるのみならず、現在を歴史の座標の中に位置づける作業でもある。
研究者や学芸員の手による重要な仕事、あるいは今日「ガン」と罵られるだろう彼らの。
市場原理に物語を紡ぐ機能は組み込まれていない。
皮肉にも、スマイリーにはその責務を担えるだけの知識があった。
「奴はとんでもないものを盗んでいきました。――あなたの心です」。
「本論は大きく4つに分かれます。第1章は『現代日本とサツマイモ』で、戦中戦後の
救荒作物・お米の代用時代から、健康を守る重要作物として品種改良技術で世界一に
なった今日までの日本を、サツマイモの側から農業技術史として見ていきます。
第2章および第3章は『サツマイモとはどんな植物なの?』『日本農業にとってどんな
役割を持った作物なの?』と、サツマイモをそれぞれ植物学・農政学の面から考えます。
最後の第4章は『サツマイモはいかにして世界に広がっていったか?』です」。
農水省で進められたとあるシミュレーション、もし日本を食糧危機が襲ったら?
救世主として浮上するのはサツマイモ。なにせ肥料や農薬をほとんど必要としない。
にもかかわらず、作付面積当たりのカロリー生産量はコメの3倍、しかもビタミンや
ミネラル、食物繊維も豊富。
「白米ばかり食べていると、栄養が偏って人間は死んでしまいますが、サツマイモしか
食べなくても死ぬことはありません」。
さらに、食用以外にも実はさまざまな可能性を持つ。
エコ作物としてのサツマイモ、栽培に投入されるエネルギーと産出されるエネルギーの
比較収支で見事黒字を叩き出してみせる。これを達成できるのは他ではサトウキビくらい。
そんな効率に目をつけて、バイオマス燃料としての活用を模索する動きもある。芋焼酎の
残りカスをさらに発酵させ、そこから生じるメタンガスで発電する技術は既に実用化済み。
あるいは都市部の緑化にもサツマイモが貢献する。都心のとあるビルの実践例では、
屋上の室外機を覆うようにサツマイモを繁らせることで、空調周辺の温度を引き下げて、
真夏のピーク時に電気代を10パーセント節約することに成功した。当然、秋になれば
収穫も期待できる。そんなレクリエーションをも、提供することができる。
農水省とその出先機関で長年、品種改良に従事してきた筆者の手による本書は、
当然に日本農業の歩みを伝えずにはいない。
他の作物の例に漏れず、サツマイモもまた、研究は公の仕事にその多くを負う。そして、
その取り組みはいわゆるお役所仕事とはおよそ対照的な「常識への挑戦」。
食感のトレンドは「ほくほく」から「ねっとり」へ。そんな消費者の嗜好の変化をいち早く
察知し、新品種を提案する。そうして例えば「べにはるか」は生まれた。
紫はポリフェノール、オレンジはβカロテン、そんな色素の機能性に目をつけて、
品種のブラッシュアップを図る。今や酒店でおなじみの「赤霧島」や「茜霧島」とて、
筆者の強い後押しがなければ、誕生していなかったのかもしれない。
芋ばかりでなく、葉もまた、「スーパー野菜」と呼ばれる資格を持つ。意識すべきは
地下ばかりではない、ここにもまた「常識への挑戦」の一例が見える。
種苗法は廃止された。農協は民営化ファシズムの標的として完全にロックオンされた。
世界に冠たる品種を育て上げた研究環境も遠からず崩壊する。
正直、なめてた、本書のことも、サツマイモのことも。
この偉大なる植物すら越えて、日本の農業のリアルを捉えた一冊。
モナドには窓がない。
「大学2年生の7月から、翌年の1月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを
考えて生きていた。……それほど強く死に引き寄せられるようになったきっかけは
はっきりしている。彼はそれまで長く親密に交際していた4人の友人たちからある日、
我々はみんなもうお前とは顔を合わせたくないし、口をききたくもないと告げられた」。
そして時は流れて、36歳のつくるはひとりの女と出会い、そして言われる。
「あなたは良い人だと思うし、あなたのことが好きだと思う。つまり男と女として……
でもあなたはたぶん心の問題のようなものを抱えている」。
彼女の直感に従えば、その「心の問題」はやはりメンバーとの訣別に端を発する。
かくして彼は、16年前の真相を探る旅に出る。
大学を卒業したつくるは、エンジニアとして鉄道会社に就職し、日々駅の設計にあたる。
彼の目に映る駅とはつまりこんな場所、「それほど多くの人々が、それほど多くの車両で、
なんでもないことのようにシステマティックに運搬されていること。それほど多くの人々が、
それぞれに行き場所と帰り場所を持っていること」、つまり「反復性」の場としての。
そして彼にとってそれは絶えず眺めるものとして、設計するものとして表象される、
すなわち、その場には同期化できない存在としての自己定義を絶えず確認し続ける、
換言すればそれは「心の問題」を更新し続ける作業に他ならない。
「僕はずいぶんつまらない顔をしてい」て、「個性みたいなものもなかった」。
「色彩を持たない」存在としての自己定義しか有しなかったつくるは、他者の承認を通じて
ようやく、誰かを愛するための、自分を愛するための道筋に立つに至る。
「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって
深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。
悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を
通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」。
本書の主題は誰の目にも明確、つまりは愛の必要。
そしてそこにこそ、嘆かわしき破綻が横たわる。
「彼が考えなくてはならないのは、そのようなすさまじい数の人々の流れをいかに適切に
安全に導いていくかということだ。そこには省察は求められていない。求められているのは
正しく検証された実効性だけだ」。
「調和」や「傷」が人々を結びつける、そんな幸福な幻想はもはやいかなる場所も持たない。
駅が、交通が、経済が、「実効性だけ」が人を繋ぐ。
「心の問題」を語るべき場所なんて、そもそもはじめからこの世界にはなかった。
『創世記』の一節、女と蛇に唆された男は「善悪の知識の木」の実をかじる。すると
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、
腰を覆うものとした」。「知」ってしまったことをもって、彼らはエデンを追放される。
あるいはその同義語としての、「ああ 想い出だけで/繋がるしかなくて」。
喪失済みのものとしての世界、不可能性の表象としての世界。
「今ここで彼にできるのは、祈ることくらいだ」。
この世界に愛のあるや、なしや。
タッチパネル的に表現可能な、「反復」可能な記号としてではなく、愛を愛としてあえて
信じること、「祈る」こと。
パスカルはかつて神への信仰を賭けという仕方で功利計算的に肯定にかかった。
ところが愛にこの論法は通じない、なぜならば、与える者は常に損をするから。
どうしようもないシュタイナーを引き写したような、どうしようもない自称ジャズ・ピアニストや
そんな輩に引っかかるどうしようもない哲学科の教授とか、そんな話はもうどうでもいい。
「限定された目的は人生を簡潔にする」。
「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それが
もたらした歴史を消すことはできない」。
C.マッカラーズ『結婚式のメンバー』に胸を掴まれて、『海辺のカフカ』以来、久々の春樹小説、
なぜかくも「人生について気の利いた警句を口にするのが好きなのか」、しかもたいていヒロインの
口を借りて。
やれやれ、何も変わっていない、いちいちが。
評価:
島川 英介,NHKスペシャル「MEGADISASTER」取材班 NHK出版 ¥ 842 (2017-03-08) |
「本書では、過去日本を直撃したことがないような巨大台風における『大避難』と、
日本にとって最大の脅威の一つと言える南海トラフの巨大地震における『大避難』の
2つを軸に、自然災害そのものの変化と、それを想定する科学の変容、そして
今日の日本社会のあり方を描いていく。……現代都市は高い堤防をはじめとする
強固なインフラにしっかりと守られているように見えて、そのじつ、巨大災害の脅威と
隣り合わせにあるのだ。私たちはその実態を具体的に知るとともに、被害を防ぐ
ための処方箋を手に入れる必要がある」。
関東圏を直撃する「スーパー台風」をめぐる、驚愕のシミュレーションが紹介される。
分析の対象は、荒川の氾濫により甚大な被害の想定される東京都の江戸川、葛飾、
足立の三区。区民180万人がそれぞれ交通機関や自動車での移動や高所への避難を
試みたとしても、逃げ切れず「命の危険にさらされている人」は20万人にも達する。
ショックはさらに畳みかける。ならば早期の避難を心がけたらいいだろう、と思いきや、
避難勧告と同時に街を空にしようとする選択は事態をより悪化させる。引き起こされる
渋滞の結果、取り残される人々はむしろ倍増してしまう。
あくまで想定は3区に限られたもので、実際のケースでは近隣自治体民の動きも
組み込まれるだろうから、これすらも楽観的な予測でしかないのかもしれない。
仮に180万人が全員逃れたとして、どこに受け皿の備えがあるというのだろう。
地震にせよ、台風にせよ、災害列島であることをやめられる魔法の一手などまさかある
はずもなく、さりとて悲嘆に暮れてもはじまらない。
いわゆる「釜石の奇跡」を手引きした防災研究者が語る。
「大きな課題に取り組んで、『大ダメ』が『中ダメ』になってもそれはそれでいいのではないか。
次のステップで『小ダメ』にすればいい。そのようにしなければ、今回のような大避難の
問題は少しも前進が見られないままになる」。
ファシストが何を叫ぼうが、実を結ぶ変革は常に漸進的。
「大避難」でもそれはたぶん変わらない。
「父・伊藤律の『無罪』は、主として私以外の多くの人たちの力によって完全に
証明された。もはや私には付け足すものはなくなった。ようやく気が楽になった。
もし私にできることがあるとすれば、レッテルなどへの気兼ねや政治的立場への
配慮などもすることなく、肩の力を抜いて、私が体験したこと、見たままのことを
記すことではないか。……そのなかには、近くにいる父とともに過ごした最後の
9年間のこと、その前後のこと、父の不在だったときの母の苦労のこと、とくに父が
冤罪=濡れ衣を着せられた家族の一員として、息子として感じ考えたことも
含まれるだろう。いまをおいて私を発言する機会はないと思った」。
冒頭間もなく、息を呑むような経験を語る。警察や公安が当たり前のように子どもの
後を尾行する。
「ぼくらの家族が異常で周囲が正常なのか、こちらが正常で周囲が異常なのか」。
スパイ疑惑の渦に翻弄された数奇な運命の自叙伝を期待するも……。
内ゲバと、内ゲバと、あと内ゲバ。
日本共産党史を知るものにとってはあるいは興味深い描写もあるのかもしれないが、
本書を手にするまでは伊藤律の名前すら知らなかった私にとっては、並ぶ固有名詞の
重要性や意味も把握できず、さりとてゾルゲ事件の文脈や中国での投獄の経緯などを
ガイドしてくれるわけでもなく、従って本書全体をどう捉えてよいものか、分からない。
そんな中にも、背筋のそばだつ記述があった。
父・律の葬儀の場面、出棺のときのこと、さる共産党員が「あたかも当然のように、
棺の上を赤旗で覆った。
そのときだった。私は、一瞬、自分の身体が硬直したかと思った。
兄・徹がその赤旗を剥ぎ取ったのである」。
衝撃はそこで終わらない。件の党員が再度、棺にかぶせ、そして兄もまた、剥がす。
果たしてこのやり取りがどう決着したのか、当事者の記憶は一致を見ない。
「幽霊」にもてあそばれた一家の数十年が凝縮された瞬間、と私は思う。
葬送はしばしば、その者の生前を反映せずにはいない、まるで走馬灯のように。