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    相棒

    • 2017.05.31 Wednesday
    • 21:51

     バイエルン王家の分派の末裔、その血を辿れば9世紀にまで遡り、ただし当の両親は

    「いかに金を使わないかを考える良い手本」だったというオックスフォード出身の銀行家。

    息子2人は聖職者の道を歩み、自身もマルタ騎士団の幹部を務めた。経歴を並べるに

    古きエスタブリッシュメントの典型。

     窺い知れぬ裏の顔はともかくも、文体もまた、そうした硬質性を前面に押し出したもの。

    エピソードや会話には装飾を排し、筆者の目から見た簡素な事実の羅列に終始する。

    山っ気も、ハッタリも、サービス精神もない、ショービズの住人のパブリック・イメージとは

    およそ似つかない堅物による、とんでもなく平板な自伝。

     

     ストーンズのファンにとっては、あの出来事の裏でこんなことが、なんて発見があるやも

    知れぬが、はっきり言って、自伝単体としての評価としては、相当につまらない。

     しかし本書を逆説的に面白くしてしまうのは、こんな謹厳な人間がロック・バンドの

    マネジメントを担当してきた、というミスマッチングの妙にこそある。

     ミック・ジャガーとの二度目の面会を追憶する。「意外にも家は飾り気がなく、部屋は

    がらんとしていた」。まもなく理由を把握する。「家に家具がなかったのは、ミックには

    家具を買う金がなかったからなのだ」。そしてそれこそが筆者が招かれた理由だった。

    「彼の話の要点は、『私には金がない。バンドのメンバーにも金がない』ということだった。

    ストーンズは成功しているのに、なぜ誰にも一銭も金が入ってこないのか」。

    「スターの資質」なんてものがまさか筆者にあるはずもない、この本がつぶさに証明する。

    ただし彼には財務の知識は十二分にあった、メンバーの持ち合わせるはずのない。

     足りないものを補い合う。バディの興奮がそこに生まれる。

     

     そんな互いにとっての未知との遭遇は、時代とシンクロしたものでもあった。

    「ミュージシャンたちは、すべての上流階級がバカで不愉快な人間であるとは限らないと

    理解するようになった。上流階級の人々も次第に、ミュージシャンは必ずしもワルで

    愚か者ばかりではないと考えるようになっていった」。

     彼らのビジネスはそんな架け橋のひとつの象徴となった。

     

    「長いあいだ、面白おかしく奇妙なローリング・ストーンズとの関係が続く中、どうして私は

    彼らの音楽が好きになれないのか、よく考えたものだった。多くの外部の人たちにとって、

    私がけっしてストーンズのファンでもなければ、いわゆるロックンロール好きでもないことは

    大きな驚きのようだった。

     今もなお、はっきりとそう思う」。

     この独白が飛び出すのはなんとエピローグでのこと、文中でも絶え間なくその旨は

    表明され続けているわけだが、この期に及んでまだ言うか。

     筆者にとって音楽といえばクラシック、「ミックには、私の憧れる素晴らしい歌手たち、

    ティト・ゴッビやボリス・クリストフのような歌唱技術は備わっていない」。当たり前だろ。

     形式主義者もここまでいけば筋金入り、思わず笑いを誘われる。

    ロバート・パーカー化する世界

    • 2017.05.29 Monday
    • 22:58

    「テロワールを守ることは、頑なに反動的なまでに伝統に執着することと同じではない。

    その反対である。共通の過去にしっかりと根を下ろしながらも、未来に向かって進んで

    いく意志を持つことである。いま現在、その根から地上において自由に枝を伸ばし、

    大きくなっていって、自分にふさわしい明確なアイデンティティを創造することである。

    それが、グローバル化という波に屈して均質化されてしまうことと闘う道である。それが

    倫理的な意味で積極的に行動する唯一の方法である。過去を尊重し、過去を基準点と

    しつつ、しかし猿真似に終わらせないことである。……歴史的な記憶は、市場と文化、

    そして国際政治の破廉恥な開拓とマーケティングという何もかも蹂躙していく嘘に対して、

    たった一つ残されている歯止めである」。

     

     確かそれはイアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』の冒頭、ワインの当たり年を

    知りたければ――つまりは投機価値の高低を知りたければ――、実物を飲むまでもない、

    気温と降水量を調べさえすればいい。

     この判断の根底にあるのはロバート・パーカー、筆者に言わせれば「子どもっぽい味」、

    「ケチャップ」、彼のハイスコアを得るには、言い換えれば市場で大金をせしめるには、

    果汁は甘く濃密なほどいい。かくして世界の味覚はどうしようもなく画一化されていく。

     しかし、そこに筆者は問いを投げかける。果たしてワインはそれがすべてなのか、と。

    そして、懐疑は単にワインの域を超える。「嗜好を表現することは、人間の自主独立を

    表わすことであり、精神的な自由の象徴である」。然らば、「嗜好」のグローバル化、

    つまり単一化は「人間の自主独立」をも脅かすことになりやしないだろうか。

     

     なるほど、筆者のことばはしばしばあまりに直截で、ただし一方でその真意を語る。

    「本当の批評というのは、映画でもワインでも、みんなが自分の言うことにしたがうことなど

    望んでいない。ただ、挑発して、読者に自制を促すと同時に、批評自体についてよく

    考えてほしいだけなんだよ。みんなによく考えてほしいと薦めているんだ。自分が指導者に

    なりたいだなんて、まったく思っていない」。

     本書にはしばしば政治批判が飛び出す。確かに享楽の酒をまずくするかもしれない。

    しかし、その言動を我田引水の飛躍とみなすのは本書全体の誤読としかならない。

     言論の自由の原点とはつまり、著しい他害性を有しない限りにおいて、お前の言い分に

    共感はしないが、ただし言いたいことを言う自由だけは認めてやる、この精神にこそある。

    筆者にとってテロワールとはまさにこの「他者」性の探求にほかならない。

    「彼には、『味方』か『敵』しかいない。だから、本当の『他者』は、存在できない」。

     この文脈の「彼」は、直接的にはパーカーを指す、ただし誰とて代入可能。

     自らが愛する大地、愛する人々、パトリを本拠に持たぬナショナリズムなど、友敵原理の

    インフレーションで辛うじて体を保つしかない。割れ鍋に蓋の爆ぜる時はいずれ来る。

     そんなパトリをワインの向こうに見ることを牽強付会とはもはや言えない。

    「テロワールを尊ぶには、過去に対して道徳的責任の感覚を持つ必要がある(また過去に

    意味を持たせるためには、常に時間的な推移の中で再評価していかなくてはならない)。

    文化、社会全体の保護、市民としての責任、公正な雇用、報道の透明性、そうしたもの

    すべては、私たちが歴史の感覚を失った時、つまり私たちはみんなで共同体を構成して

    いるのだという感覚を失った時、崩れ去ってしまう」。

     

     そして、筆者の試みは残念ながら徒労に終わる。

    「『世界市民』は、糖質と脂質を求める安易な『グローバル消費者』になってしまった」。

     その生存戦略としてダイレクトにおいしさを感じ取れるのが「糖質と脂質」である以上、

    どうあがいてもヒトはそこに引き寄せられる。ゆえに、食品産業がいかに売り文句の

    ごたくを並べようが、実効性がありかつ安上がりな隠し味といえば、砂糖とマーガリンの

    他には特にない。それで顧客は満足を得られる。金も流れる。何が悪い?

     別に味覚に限らない。ヒトの攻略法はとうにネタバレして、オワコンを告げた。

     人間というコンテンツの初期設定の貧困に「テロワール」は何らの解決をも与えない。

    リヴァイアサン

    • 2017.05.29 Monday
    • 22:51

    「ある若い黒人の刑務官はこういった。刑務所の図書室は、99.9パーセントの

    受刑者にとっては無用の長物だが、マルコム〔X〕のような人間を再び輩出する

    可能性があるというだけで存在価値がある。

     その一方で、ホワイティことジェイムズ・バルジャーという凶悪な男の例もある。

    ……その悪名高い戦術と、計画的で残忍な弾圧の方法にみがきをかけたのは、

    軍事史を詳しく研究したからだった。刑務所の図書室でのことだった。……

    ホワイティもマルコムと同様、最初に本と出会った場所は刑務所の図書室だった。

    本棚の並ぶ静かな図書室の中で、彼は初めて、とことん勤勉に知的努力とした。

    マルコムもホワイティも、刑務所の図書室に足を踏み入れたときには若くて無学な

    街の悪党にすぎなかったが、出てきたときは人の上に立つ才覚を身につけていた」。

     とはいっても当然、図書室の利用者に与えられる選択肢はこの二通りではない。

    言ってしまえば、本書の主役はそのいずれでもない普通の囚人たち。

     そして、その目撃談をつづる筆者の出身はユダヤのエリート・コミュニティ、大学は

    ハーバード、ところがキャリア・パスを自ら降りて、ボストンの新聞に死亡記事を寄せる

    しがないライターとなる。そんな数奇な運命のひとまずの終着点が刑務所だった、

    ただし囚人ではなく、司書として。

     

     彼は同時に創作ワークショップの講師も担当する。

     その教え子ジェシカは「ぼくにはとても気になる存在だった。彼女はいちばん後ろの

    席に、もちろんひとりで座り、窓の外をじっとみていた」。講義なんて上の空で、いつも

    外ばかり眺めていた。席替えを促すと彼女はもう来なくなった。あるとき、理由を知る。

    「十年も会ってなかった息子が、突然現れたのよ、青い囚人服を着て」。

     恋人との結婚をためらっていた頃、「大事なこと」を彼女から忠告された。

    「あなたには分からないと思う。自分にとって大事なものを何もかも失うって、どんな

    感じか。でもあたしはわかる。だからいうの……誓いを立てて、ちゃんと守りなさい。

    ……書類に記入して、点線の上に署名しなさい」。

     それは彼女がただ一度「自ら沈黙を破って残した言葉」だった。

     

     あるいは別の参加者、チャドニーの場合。

    「シェフになりたいんだ。でもって、自分のテレビ番組を持ちたい。本気なんだ」。

     筆者はその一歩を手助けする。料理学校の願書や納税など各種手続きの概要、

    そしてレシピ本を渡す。数日後、気に入ってくれたらしく、メニューを暗唱してみせる。

    「スチールヘッド・トラウトのアスパラガス、熟成バルサミコ酢、ラディッキオ添え。

    マガモのモモ肉のタイム風味ローストとタンポポのポレンタ」。

     もっとも彼はほとんどの食材について触れたことすらなかった。

    「新しい道に進みたい一心で、ひたすら食材やスパイスの名前を組み合わせ、

    料理の練習をしていたのだ。本で得た知識から、『バルサミコ酢』という言葉は、

    『アスパラガス』という言葉と相性がいいと知っていたが、どちらも食べたことが

    なかった。また、『ローズマリー』はチキンのレモン風味と相性がいいということも

    知っていた。ただ、転んでローズマリーの茂みの中に倒れこんだとしても、それが

    ローズマリーだとはわからないだろう、と告白した」。

     

     そして、ジェシカもチャドニーも、既にこの世にはいない。

     天才トマス・ホッブズは言った。

     戦争状態における生は、「孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」。

    ヴァージン・スーサイズ

    • 2017.05.25 Thursday
    • 21:52
    評価:
    シャーリイ・ジャクスン
    文遊社
    ¥ 1,944
    (2016-08-23)

     冒頭、主人公のナタリーは、ホーム・パーティを控えて口論にふける両親をよそに、

    空想を遊ばせる。刑事からの執拗な取り調べ、どうやら恋人を殺した廉で詰問されて

    いるらしい。いつものことだった。彼女は「17歳だったが、もう15になったころから、

    ほんとうの自覚が生じたと思っていて、日々聞こえる両親の声と、二人の理解しがたい

    行動が及ばない別の音と視界の世界の片隅で生きてきた」。

    「わたしが神さまかな」、そんなジョークもジョークにはなり切らない抑圧的な父と、

    振り回されて疲弊した母。彼女は娘に言い聞かせる。「自分の時間の大半を何に

    費やしているかといったら、昔はよかったと懐かしんだり、またよくなるのかしらと

    疑ったりすることばかり。……結婚する相手には気をつけなさい。お父さんみたいな

    人には絶対に近づいちゃ駄目よ」。

     やがて家族を離れて、大学進学を機に入寮するも、やはり居場所は見出せず……。

     と、そんなある日、彼女はトニーと出会い、そこから運命は急展開する。

     

    「おそらく――そしてこれは彼女がもっともこだわる考え、彼女に取りつき、折々に

    いきなり彼女を悩ませたり慰めたりする考えだったが――もし、実は自分が女子大生で

    アーノルド・ウエイトの娘のナタリー・ウエイト、奥深くも美しい運命の子でなかったら

    どうだろう? 自分がほかの誰かだったらどうだろう?」

     そして例の世界から不意に引き戻されて、否応なしに気づかされる。

    「しかし、一瞬で過ぎ去ってしまうこういう感覚以上に悪いのは、おそらく現実には

    自分は女子大生でアーノルドの娘のナタリー・ウエイトにほかならず、この世界の

    堅固さを無視するわけにもいかないまま、厳然と存在する陰鬱なそれへの対処に

    迫られるという恐ろしい確信だった」。

     この世界に存在することそれ自体すらも、否定せずにはいられない。

     寄る辺なき過剰な自意識を描く、たぶん、典型的な愛着障害の手記。

     

     この訳者、『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹The Virgin Suicides』の翻訳を

    手がけた方でもあるらしい。文体的なものもあるのだろうが、どこか読後感も似る。

     パターナリズムの失敗ゆえか、うまく世界になじめない少女の記録。

     悪い小説とは思わない。少なくとも『ヘビトンボ―』よりはよくできている。さりとて、

    この手の類書の中で傑出した何かがあるとも見立て難い。空想か、現実か、迷える

    ナタリーのそんな境に没入できなかった私にはどうにも間延びした感が振り払えない。

     C.マッカラーズの名作『結婚式のメンバー』とは、残念ながら、比ぶべくもない。

    Yours Truly

    • 2017.05.25 Thursday
    • 21:44

    「ここ十数年の音楽業界が直面してきた『ヒットの崩壊』は、単なる不況などではなく、

    構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。

    『モノ』から『体験』へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが

    普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化に

    よって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての『ヒットの

    方程式』が成立しなくなってきたのである。

     本書は様々な角度から取材を重ね、そんな現在の音楽シーンの実情を解き明かす

    ルポルタージュだ」。

     

    「史上最もCDが売れた年である1998年に比べ、2015年の音楽ソフトの生産金額は

    40%に過ぎない。6074億円から2544億円へ。この17年でおよそ3500億円の市場が

    失われた計算になる」。

     とはいえ、こうした数字を論拠に、音楽業界が時代の動向を掴み損ね、取り残された

    証左だ、などという安直な結論を本書は引き出すものではない。それどころか、こうした

    数字こそが、音楽シーンと社会の連動性を示唆するものに他ならないことを主張する。

     

     上記の通り、CDは売れなくなった。しかし、それだけの金が音楽コンテンツの消費から

    まるまる消え去ったわけではない。「CDよりライブで稼ぐ時代になっているのだ。……

    2015年の音楽ライブ・エンターテインメントの市場規模は3405億円。2010年からの5年間で

    2倍以上に市場が拡大した」。

     この背後にあるのは、いわゆる「モノ」から「コト」への体験消費マーケティングの隆盛、

    いみじくもライブ市場は恰好の仕方でそれを体現する。

     そしてその風景はしばしば、「参加型」の体験として実践される。会場内の聴衆に配布

    された無線型ペンライトやLEDリストバンドを「主催者側が無線通信を用いて光の点灯や

    点滅、色の変化を制御」することで、客席が視覚的にも「曲や照明や映像と連動」して、

    その結果「強い一体感が生まれる」。

     

     とはいえ、本書の骨子というべき社会構造の転換をめぐる議論に別段新しい話が

    観察されるでもない。率直に言えば、既知のフォーマットを音楽業界に落とし込んで、

    それをおさらいしただけのテキストという以上のものではない。