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    「落語はフィクションです」

    • 2017.06.30 Friday
    • 22:47

    『明烏』に誘われて現代の吉原を訪ねてもどうなるものでもない。

     不機嫌に甘納豆を貪る語り口からふと、今はなき遊郭の姿が忽然と立ち上がる。

     そんなオーラル・ヒストリーとしての落語をつてに、あえて街を歩いてみる。

     

    「落語散歩をはじめてみるのは簡単です。毎日暮らしている町から、ちょっと歩いて

    みるだけで、浅草、新宿や道頓堀、天王寺といった身近なところに、こんなにも落語に

    出てくる場所があったのかと、びっくりするかと思います。

     寄席で笑ったあの噺、テレビで見たあの落語を頭の中でリフレインしながら、それとも

    携帯型の音楽プレーヤーから流れてくる旅の噺を聴きながら、落語と一緒に歩いてみれば、

    時間は過去へと巻き戻され、ビルの向こうに澄んだ青空が見えてくるでしょう」。

     

     一介の聖地巡礼の形式をはるかに超えて、本書の味わい深さは、どこかリズミカルで

    小粋なその文体にある。

     漠然と散歩の風景から抜き出す。

    「王子神社の鳥居を抜けると、坂道が複雑にクロスした交差点にでます。田舎道を

    そのままにして、田畑に作物の代わりに家やビルを建てたような地割りです。細道に

    入ってみます。ひとしきり迷って歩いているうちに、遠くに朱塗りの玉垣が見えて

    きました。先ほどの王子神社から直線距離で400メートルほどでしょうか。王子稲荷に

    着きました。境内が幼稚園の園庭となっており、園児たちの遊ぶ声が響いています。

    平日は園庭が通れないので、脇の急坂を登り、横の方の鳥居をくぐって境内に入る

    ことになります。正面の楼門をくぐって参詣したい方は、休みの日の訪問をおすすめ

    します。楼門の向こうに、ほとんど傾斜のかわらない男坂、女坂の石段がならんでおり、

    その上に社殿が見えます」。

     そこらの噺家では到底再現できないだろう、この小気味よくもたおやかな語り口、

    図らずも言文一致体のひとつの終着点に出くわす。

     

     巻末には都道府県別の登場地名の一覧が並び、文中においてもその頻度などの

    データが並ぶ。こうした定量化が可能となるのも充実したアーカイヴがあってこそ、と

    いうのは非常によく分かるのだが、その我田引水の力説が時として主題そのものの

    密度を下げてしまっている感は否めない。

     

     散歩道は各自で音源やテキストにあたってみれば、数限りなく見つけられる。

     しかし、この文体はそうそう得られるものではない。

     ただそれだけのために続編を願ってやまない。

    「ボストンの次は、いよいよ天国だ」

    • 2017.06.30 Friday
    • 22:45
    評価:
    ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム
    竹書房
    ¥ 1,728
    (2016-04-07)

    『レ・ミゼラブル』の出来事、粗暴なこそ泥ジャン・ヴァルジャンは捜査の手を逃れるべく

    教会へと逃げ込み、そこで「悔い改め」て赦しを受けると、名前を変えて裏口から再度

    社会へと出て、有徳の起業家、自治体長として、ひとまずの成功を収める。

     とはいえ所詮は物語、現実の教会はかくも麗しき「浄化」作用を持たない。

     

    20016月、ローマ・カトリック教会ボストン大司教を長年つとめるバーナード・F

    ロウ枢機卿は、型通りの裁判所提出書類を使って、大それた承認をした。ひとりの

    司祭を『派遣端境期』とする承認だ。話は、17年前にさかのぼる。ロウ枢機卿は

    ジョン・J・ゲーガン神父に、裕福な郊外の教区司教代理という割のいい仕事を与えた。

    そのつい2か月前、ゲーガンには7人の少年を虐待した疑いがあるとの報告を受けて

    いたにもかかわらず――」。

     

    「少年に性的いたずらをした疑いのあるひとりの司祭のニュースが、司祭をかばった

    ひとりの司教のニュースに様変わりする」。

     もちろん一義的に糾弾されるべきは個人のモラル、しかしそれが教会組織そのものの

    構造問題とすることを飛躍と捉えることはできない。

     まさかこの報道を契機に、性職者による虐待問題をカトリックが把握するところと

    なったわけではない。この枢機卿が作成に携わった1985年のレポートには既に

    こう記されていた。

    「小児性愛は生涯にわたる病質であり、今のところ、時が癒してくれるという望みはない」。

     しかし、にもかかわらず、性職者はほんの形式的な短期の入院の後、テリトリーを変えて、

    過去の事実は伏せられたまま、野に放たれた。当然、刑事司法に引き渡されることもなく。

     そして彼らは行く先々で再犯を重ね続けた。

     

     そしてこの事件が何よりも痛々しいのは、教会の素顔を露呈させてしまったことにある。

     この枢機卿は「司祭のための司祭だった。/同様の同情心を、ロウ枢機卿は司祭に

    虐待された被害者たちに示せなかった」。

     ロウをもしヨハネ・パウロに置き換えてみれば――やはり見事なまでに成立する。

    ベネディクトゥスでも、フランシスコでも、結局、何も変わらない。

     教会の外側に、共感の対象などなかった。

     肥え太った肉体がすべてを証言する。

     性職者のユートピア、選民思想の場としての教会史に聖職者などひとりもいない。

     

     映画『スポットライト』の原案という点に印象が引きずられているのかもしれないが、

    本書はいささか奇怪な文体を持つ。

     というのも、取材の主体や経緯が見えてこない。

     模糊たるブラックボックスからことばが投げ出される、あたかも教会を真似るように。

     

    「少数の悪者が、残りをすべて悪者に見せてしまう」結果、「そんな輩ばかりだと憶測する

    人が過度に増える危険があり、それもまた、公正ではない」。

     なるほど、一般論としては非の打ちどころなく正しい。

     しかし、「悪者」を温存し続ける組織に身を置くことを選んだ人間に「悪者」との視線を

    注ぐこともまた、同様に否めない。

     成功はすべて合理性に由来し、失敗はすべて人間性に由来する。

     社会性と社交性は常に反比例する。

     人間が集えば、そこに腐敗が生まれる。

    「日本国民統合の象徴」

    • 2017.06.23 Friday
    • 22:35

    「戦後70年の皇室の歴史において、ここ10年余、皇位継承問題、皇族減少問題

    (女性宮家創設論)、そして『生前退位』問題と皇室典範の制度疲労が一挙に露呈

    した感がある。いずれも速やかな解決が求められる喫緊の課題である。

     こういう時だからこそ、逆に原点に立ち返り、『日本人にとって皇室とは何か』、

    『皇室がなくなったら、日本はどうなるのか』を問い返してみるべきであろう」。

     

     本書がまず伝えるのは、2つの「外圧」に従って変容を遂げた皇室の歴史。

     

     第一の「外圧」とはすなわち、古代日本の律令制の時代、中国によるもの。

     当時の中国において、周辺諸国の文明度を測る尺度と言えばただひとつ、「中国化の

    進展度」に他ならず、程度が低いと見なされれば、「化外の地」として、「徳化」の名の下、

    軍事投入をも辞さなかった。

     かくして自国の安定を図るべく、中国文化の摂取に励む時の日本の中央集権化を

    率いたのは稀代の中国通で鳴らした藤原不比等。血みどろの抗争劇に示される

    天皇親政から、「大宝令制」の導入により、朝廷と官僚の棲み分け、現代風に言えば

    権威と権力の分離への移行が果たされる。

     

     そして第二の「外圧」とは江戸幕府末期、ペリーの来航に端を発する。

     不平等条約という「屈辱を乗り越えるため、天皇を中核として朝廷、幕府、諸藩が

    立場を超えて立ち上がることが急務であった。幕末においては、かかる国是こそが

    尊王攘夷論にほかならない」。

     かくして天皇が再び政治のキーパーソンとして表舞台に立ち、やがては大政奉還、

    大日本帝国憲法への道筋を得る。

     

     そして現代、後継問題という「内圧」によって皇室は岐路に立たされる。

     

    「即位に際し、陛下は日本国憲法の遵守を誓われ、象徴の立場から国民に寄り添いつつ、

    皇后陛下とともに熱心に公務を果たされてきた。よって大多数の国民が、天皇皇后

    両陛下に対し敬慕や感謝の念を抱いていることはまちがいない」。

     なるほど、そうだろう。

     しかしこの念は果たして「天皇」という機能に由来するものなのだろうか。稚拙な感情を

    隠そうとしない権力の頂とはおよそ対照的に、権威の重責を誠実に完遂せんと努める

    一個人の人間性への尊敬に他ならないのではなかろうか。

    「天皇や皇室がもつ統合力は日本人の精神構造に根づき、日本の社会の絆として

    有形、無形に大きく作用してきた」と筆者はあくまで訴えるが、その反証は明治天皇の

    地方巡幸という教化キャンペーンを示せば足りる。『日本書紀』や『古事記』に基づく

    「天皇中心の神の国」論とて「人間宣言」をもって終わりを告げた。

     

     戦後、昭和天皇は転向と平和の「象徴」となった。今上天皇、皇后は家父長制に

    背を向けた新たなる家族像の「象徴」となった。現皇太子妃は成婚時においては、

    その華々しいキャリアから女性の時代の「象徴」となり、そして今、重圧に耐えかねてか、

    公の場からはほぼ引きこもり、息女は拒食に苦しんでいる、という。そんな病める時代を

    「象徴」する皇室は、次にいかなる未来を「象徴」するのだろうか。

    トランスボーダー

    • 2017.06.23 Friday
    • 22:32

    「寒いからストッキングをはいた。ただそれだけだよ」。

     きっかけはそんな必要にかられてのことだった。しかし、ふと迷い込んだきらびやかな

    女性用下着売り場が筆者に思わぬ気づきを与える。

    「これ以上、狭い世界に押し込まれるのはごめんだ!

     人生で初めて、ストッキングを購入するためにレジの前に並びながら、僕は考えた。

    男の役割を捨てようか。女としての生活は、いったいどんなものなのだろう? 男よりも

    快適なのだろうか?……僕は、今のままの自分であることに、違和感をもちはじめていた。

    男であるというじじつがささいなことのように思えてきた。世の男たちは“男らしさ”を

    演出しようと苦心するが、昔から僕はそういったことにあまり関心がない。もしかすると、

    女性のほうが生活をより楽しめるのではないだろうか?」

     かくしていつしかパンツの下のストッキングを越えて、彼の女装生活の日々がはじまる。

     

     防寒具としての機能性の高さを、単に女性用/男性用という仕切りのために放棄する。

     なるほど、馬鹿らしい。

    「僕は人間でありたい。妥協も区別もしたくない。男でも女でもない完全なもの」。

     本書は一面では、そうした開かれた人間性の境地を目指すもの。

     

     とはいえ、総体的な印象としては、古臭いフェミニズムの域を脱するものではない。

    「何よりもたちが悪いのは、男のイメージは何があっても壊されてはならないとする、

    宗教にも似た信念だ。疑問を抱くことすら許されない。たとえば、男は強いものだという

    イメージ。忍耐強く、どんな困難にも挑戦し、すべてを乗り越え、あらゆる問題を解決

    できると思い込んでいる。……まったく、傲慢としか言いようがない」。

     指摘のすべてが的外れとも思わないが、一義的にはこうしたバイアスを通してしか男を

    観察できない筆者個人の問題としか思えない。

    「女性になることで、僕のアンテナは“送信”から“受信”に切り替わっていた」。

     フェミニズムをめぐる典型的な視線の政治学、見る−見られる。

     古典的に過ぎて、今さら新しいものが発掘される期待など抱きようがない。

     

     そして、女への幻想は時に無残に裏切られる。

     あるとき、妻の不満が爆発する。

    「みんな、あなたの話しかしないのよ。頭がおかしくなっただとか、性転換するつもり

    だとか。そして言うのよ。『あんな男と結婚して、あなた、かわいそうね。だいじょうぶ?

    私たちはあなたの味方よ』って」。

     たちまち彼は打ちひしがれる。「僕の前ではそんなそぶりを少しも見せなかった。

    理解すら示していた。おもしろい! 感心しちゃう! そう言っていたのに」。

     そして追い打ちをかけるように宣告される。

    「あなたは女を美化しすぎよ、女も完璧じゃないわ。男とおんなじよ」。

     

     LGBTでも、女装癖でもなく。社会実験としての面白みがないことはない。

     とはいえ、日本ではいわゆる「男の娘」が既にやっていること。

     ジェンダー論に新たな視点や話題を加えた、という次元には程遠い。

     そして中には、研究者からの引用とは強調しつつも、「男脳が極度に発達したものが

    自閉症」などという暴論も登場する。定義や観察例すらも曖昧な「男脳」や「自閉症」と

    いった単調なスティグマを越えて、「人間」へと開くことこそがフェミニストの目指すべき

    道なのではなかろうか。

    教養主義の没落

    • 2017.06.20 Tuesday
    • 22:02

     そもそも本書のきっかけは『中央公論』における連載。骨董店を訪ね回ってエッセイを

    書いてほしい、とのオーダー。

    「敵はもちろん、私が美術骨董についてまるきり無知であることを知っている。だから

    無勝手流で書け、というのである。なまじ知っている人が焼き物について、漆器について

    講釈を垂れるより。私のようなのが行けばいろいろと、子供電話相談室のようなことが

    訊けて却っていいんじゃないのか、というのであろう」。

     

     基本的には店の来歴、主人の経歴、錚々たる常連客の逸話、そんなところから

    筆者自身の趣味をしばしばちりばめながら、本書は展開される。

     ルーツを遡れば江戸前期、由緒正しきそんな店から、独学で趣味が高じて起業した、

    そんな店まで、骨董店のはじまりとて多種多彩。事業拡大の契機とて、歴史に応じて

    様々な顔を持つ。例えば戦後間もなくの「骨董屋というか道具屋」の時代、とりあえず

    半信半疑で茶碗を仕入れて東京に持ち帰ると、「我先にと、殺気立って品物を掴み、

    札を振り回す。一時間で完売である。……平和が来たのだ。しかしそれは、物を求めて

    時に殺気立つこともある平和だった」。あるいは古民具屋の場合、とりわけ地方をめぐる

    際は相手の面子を立てることが大切、と力説する。近場で捌けば出所がばれて困窮が

    周囲に広まるからか、「同じ地域で処分してくれるな」と念を押される。交渉のときにも

    「『売ってくれ』というのではなく、『お分けいただきたい』と言わなければならない」。

     

     老舗の骨董店となれば、出入りした往年の名士の素顔を時に目のあたりにする。

     川端康成の場合、「欲しいものがあると……『これ、貰います。お金はなんとかなる

    でしょう』といって持って帰る。それが結局なんともならなくて、品物を返す、というような

    こともあった」。「服部時計店の服部正次さんが来てくれて、『町内になったんだね』と

    お祝いに時計をくれ、西行の白河切(平安時代の歌切れ)を50万円で買ってくれた。

    今なら500万円というところ。有難かった」。他店の証言、「お金持ちほど、モノはいいけど

    継ぎ接ぎだらけの服を着てたりしますよ。……服部正次さんはバーバリのコートの襟の

    部分が継ぎだらけ、三井高大さんはズボンがその状態でしたよ」。財閥解体のただ中の

    「岩崎邸で印象に残ったのは、がっしりしたお屋敷なのに障子が古ぼけてところどころ

    破れていることであった。……沢山あっても進駐軍の許可がないと一銭も使えないのだ」。

     

     そうした証言が映し出すのは、「真善美」を信じることができていた時代への淡き郷愁。

    「よきもの」を求める同人として交際を持ち人脈を確立する、そんなハブとしての骨董屋。

    「よきもの」を「よきもの」とする価値規範の自明性の底抜けが露呈してしまった以上、

    マネー・ロンダリングの材を供するでもなければ、美術趣味にもはや浪費すべき金など

    あるはずもない。

     教養は遠きにありて思ふもの、そして哀しくうたふもの。

     そんな共同体の礎の崩壊を、骨董は涼やかに映し出しているのかもしれない。