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- 2020.05.10 Sunday
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主人公、折木奉太郎は「省エネ」系高校生、「別に活力を嫌っているわけではない。
ただ単に面倒で、浪費としか思えないからそれらに興味を持たないだけ」、旅先の
姉に「古典部に入りなさい」と手紙で命じられ、「帰宅部員と幽霊部員とどれほどの
違いがあるのか」と何はともあれ入部届を提出する。成績は学年「350人中175位。
なにかのジョークみたいに平均」、ただしいわゆる平行思考の使い手。ワトソン君役の
友人、里志――「データベースは結論を出せない」――のガイダンス、インプットに
従って、鮮やかに身のまわりの不可思議な謎の答えを導き出してみせる。
そんな奉太郎のもとに難問が持ち込まれる。相談者は古典部員の清楚系お嬢様、
「好奇心の権化」千反田える。それは幼き日に伯父から聞いた「コテンブ」をめぐる記憶、
泣いたことだけは覚えている、ただし何を聞いて、なぜ泣いたのか、は覚えていない。
「なにかがあったんです、33年前に」。鍵は古典部の発行する文集『氷菓』にあった。
「パーツではなくシステムを知りたいんです」。
「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく」。
「凄みがあるのね。芸術じゃなくて、メディアだわ……」。
うぅ、かわいくない15歳。
一応ミステリーの類なのでネタバレしない範囲で。
日常系のささいな謎解きを集めたオムニバス風のスタイルかと思いきや、それらが
物語全体の伏線として機能しており、あざといくらいに作り込まれている。
そして、世の英雄譚の実相なんて剥がしてみれば概してそんなものだよね、という
もの悲しさも見事に表現されている。名家が名家として息づく田舎町という舞台設定も
静けさを引き立てる。目に映る夏の景色は、いつだってえぐるように残酷。
「いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう」。
『ドラゴンボール』を読んでもブルマの由来が分からない子が当たり前。そんな時代か。
「本書の目的は、なぜ、どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに、
存続だけはされ、もはやどうして継続しているのか誰もわからないといった現象を取り上げ、
その全体像を詳細に検討することで、学校を舞台とした民主化と戦前的心情の交錯と
ねじれの諸相と、学校的力学を支えるエネルギーの源泉を明らかにすることである。
具体例として取り上げるのは、密着型ブルマー(通称・ぴったりブルマー)の学校への
浸透と継続である。東京オリンピック憧れ説など種々の風説が流通しているものの、
いずれも根拠が乏しかったり、誤解に基づくものだったりして、実のところどうだったのかに
ついては学校教員でさえはっきり説明できる人はほとんどいないし、文献にもほとんど
記載されていない。そうでありながら、導入当初から時々聞かれていた羞恥心や不満の
声は無視され、抑圧されて、およそ30年にもわたって学校での女子体操着の主流として
継続してきたのである。『どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに
継続だけはされ、もはやどうして継続しているのか誰もわからない』現象として、密着型
ブルマーほどふさわしいものはないだろう」。
公立学校への体操着の納入という典型的な公共事業の一様式について。
1960年代において、いわゆるちょうちんブルマーに変わって勢力を急伸させた密着型、
そこには当然に種々のおとなの事情が絡まずにはいない。
さりとて、いかに中体連の錦の御旗があろうとも、「文化的素地」がないことには、
下半身のラインの露出が受け入れられるはずもない。そこには東京オリンピックという
肉体の発見があり、あるいは戦前よりの見えてもいい下着としてのブルマーの伝統がある。
そしていつしか、セクハラやブルセラといった世相の変化の中で、消滅を辿る。
あだち充『タッチ』、筆者によれば「南のブルマー姿はコミック全巻を通して、ほんの
一コマが二コマ」、そんなわけないだろう、とページをめくる。
第1巻(少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)を雑にチェックしただけで、扉絵のカットを
含め、ざっと5シーンでブルマー姿を確認できる。
そして中学生の南(永遠の17歳)に怒られる。
「スポーツをいやらしい目でみないでよね」。
すかさず達也(現在49歳)が言い返す。
「女らしくなったのは体だけだなァ」。
本書の「見る−見られる」をだいたいにおいて網羅している。
「見られる」ことは分かっている。どう「見える」かも分かっている。裸を「見られる」ほどの
緊張が走るわけでもない。さりとてじっくり「見せ」たいわけでもない。
「自己の身体に美と健康と自由を見る女子の肯定的態度と、性的まなざしの対象で
あることのアンビバレンスは、『格好いい−恥ずかしい』という感情のアンビバレンスと
して表れる」。
そしてその基底には、いみじくも制度に服するものとしての「制服」概念が横たわる。
肉体とはすぐれて社会的産物、感情とはすぐれて社会的産物。
「丸山鐵雄は、組織の中で表現の仕事をするサラリーマンである。本書はこのような
人間のことを〈サラリーマン表現者〉と呼ぶ。……丸山鐵雄は、放送局における〈サラリー
マン表現者〉のプロトタイプである。新聞記者や劇作家、編集者あがりが多かった戦前の
日本放送協会に、採用試験を受けて就職した。そして、当時『お係りさん』と呼ばれていた
放送局員が表現者としての自意識を確立していく中で、娯楽番組の原型を作り出した。
現代日本の放送メディア、そして現代日本に住む人々が情報や娯楽を享受するその
あり方の原点に、この男がいる。ジャーナリスト丸山幹治の息子であり、政治学者眞男、
そしてフリーライター邦男の兄である鐵雄は、なんでわざわざNHKなどという不自由な
組織に入り、しかも娯楽番組の制作者になったのか。本書は、丸山鐵雄という人生を
通して、日本の戦前戦後精神史と放送メディア史を描く試みである」。
「戦後の鐵雄は、GHQ特に日本の大衆文化に理解を示したフランク馬場らの指導の下、
アメリカから学んだ戦後民主主義を体現するラジオ番組を作った人物だといわれることが
ある。……戦前戦中は政治権力による言論抑圧の犠牲者であり、敗戦と民主化によって
ようやく本物の表現者になることができた、というストーリーである。……実態は違っていた
ように思われる。戦中の鐵雄は音楽雑誌に好戦的な文章を書き続け、ユダヤ陰謀論まで
唱えていた。……鐵雄は支配層による上からの『指導性』が大衆のエネルギーを捉えて
いないこと、そして資本主義的でも『国策』的でもない第三の新しい大衆文化が
生み出されるべきであることをどうしても主張したかったから筆を執った」。
奇しくもmediaなる語の源は、神と人との中間物、ご託宣。ところが、この上から下への
「指導性」を旨とするメディアの中にありつつも、鐵雄はあえて逆の流れ、下から上への
「大衆性」を志向する。
このことは、時に戦中においてさえ、当時の方針への異議申し立てとして表れる。
国策教化でも芸術でもなく、「大衆」が求めるものはあくまで「笑ひ」、そして言う。
「大衆が何か我々より低いものであつて、何を教へてやらなければいかんとか指導して
やらなければいかんとかいふからをかしかなことになつて来る。我々自身が大衆なんだよ」。
ただし、もし戦争への熱狂が、軍部の「指導性」でなく、「我々」の求める「大衆性」に
由来するものであったなら? 「鐵雄の論法を突き詰めれば、自己=大衆の心情を
大義名分にすれば、なんでも許されることになってしまうだろう。大衆が米英に対する
怒りに燃えていると判断すれば『敵愾心』が、大衆が意気消沈していると思えば悲しみの
表現が正解ということになる」。
それでも、日本人は「戦争」を選んだ。「我々」が「戦争」を選んだ。
そして、鐵雄の「大衆性」は戦後へと引き継がれ、『のど自慢』に結晶する。
「『のど自慢』に出たがる大衆を、歌の上手下手にかかわらずラジオに登場させる。人間の
勘違いや気取り、しょい込みなどがそのまま表現され、それを見る人はなんともいえない
気恥ずかしさと滑稽さを感じる。そして鐘が鳴る。そこには放送局の下手な演出がない。
つまり戦前の鐵雄が忌み嫌った『指導性』が存在していない。大衆が見たがるものを提供
しているのは、大衆自身である。ここに『大衆性』に依拠した鐵雄の番組論のひとつの
帰結があった」。
音源が残っていないだろうから仕方のない面はあるのだが、「娯楽番組」それ自体への
フォーカスが弱い点は気にかかる。ラジオという音声媒体に固有の表現手法の確立史に
話が具体的に踏み込むこともない。学生時代からの活字における言論はともかくも、
〈サラリーマン表現者〉のテキストを標榜しながら、肝心のラジオ「表現」への言及が
薄い点は物足りない。
とはいえ、大衆史として、メディア史として、興味深い記述が並ぶ。丸山眞男の実兄、
そんな背景も描写に少なからぬ奥行きをもたらすだろう。
そしてもちろん、「大衆性」と「指導性」の平衡は、マス・メディアにおける永遠の課題。
媚びるでもなく、ただし寄り添いを拒絶するでもなく。「娯楽番組」の中にそんな政治性を
読み解いていく。
聞きたくない話はこれすなわちフェイク・ニュース、聞かせたい話とてフェイク・ニュース、
そんな世界だからこそ、今あえて丸山鐵雄を発掘する意義は確かにある。
どう見ても、人間の足にはそぐわぬマノロ・ブラニクのシルエット。
シンデレラのガラスの靴にも似て、その美しさを損ねてまで、どうやって醜い足を
通しているのだろう、と常々疑問に思っていたが、本書を読んで、その謎が氷解する。
「一晩中きついヒールをはくために、足というか、足の一部の神経を麻痺させる注射が
あるのですが、ご存じないですか?」
台無しだ、何もかも。
本書の原題は、Primates of Park Avenue。
「本書は、みずからマンハッタンに住みながら、そこの母親たちを観察して学術的な
実験をした際にわたしが知った、“小説よりも奇なる”現実をまとめたものだ。……
わたしはその過程で、マンハッタン島のなかに母親というまた別のシマがあることを
知った。というか、アッパー・イーストサイドの母親たちは、一般人とは違う特殊な
種族だった。彼女たちの社会はある種の秘密社会で、独自のルールや儀式、制服や
移動パターンが行きわたっており、それらはわたしにとってまったく目新しいものだった。
さらにその社会には共通の信念や夢、文化的な慣行があったが、そんなものがこの世に
あるとは、わたしはそれまで思ってもみなかった」。
とある審査の記入項目。
クレジットカード番号から子どもの成績、果ては夫婦生活の回数まで。
何もかもを赤裸に晒させて、新入りをいたぶる儀式、情報の非対称性を構築することで
屈従を強いる。プライヴァシーもハラスメントも何もあったものではない。
驚くなかれ、世界に冠たる人権の聖地、ニューヨークの超一等地はパーク・アヴェニュー、
アパートメントの入居審査の一場面。
もちろん、ライターならではの誇張が少なからず入っている部分もあるのだろう。
しかし、本書において列挙されるグロテスクな姿にむしろ自然を覚えてしまう。
上下関係、なわばり意識、ハブり、誇示的消費……筆者が小賢しくも挟み込んでくる
人類学や霊長類の観察サンプルをわざわざ引き合いに出すまでもない。つまり、行動の
いちいちが田舎のヤンキーそのものなのだ(英単語yankeeではなく)。違いといえば、
オーバースペックの改造車がプライヴェート・ジェットに、バーバリーのマフラーや
ヴィトンの小物がエルメスのバーキンに、それぞれグレード・アップするくらい。
ただし、その桁違いの底上げは彼らの幸福感を増進させるものではなく、むしろ筆者に
言わせれば、不条理なまでの反比例を映し出してみせる。「貧困、病気、飢餓といった
ものを自分でコントロールできるようになると、お金では幸福を買えなくなる……都会
暮らしの日常的なストレス要因に加えて、アッパー・イーストサイドの裕福なママたちの
生態的ニッチに特有な数多くの要因によって、彼女たちは途方もなく神経を病んだ
人間になってしまう」。
とはいえ、そんな人々の別の顔を、筆者はとある「喪失」体験を通じて知るところとなる。
もっとも、この記述は観察対象向けの退屈な弁明としか私には見えないけれど。
白々しい、いかにもニューヨーカーらしく。
本書の人類学研究は、別にマンハッタン島の半径数キロに限られるものではない。
人間関係の雁字搦めに自ら進んで飛び込んで、そして必然、精神を蝕まれていく。
なるほど、facebookやinstagramがはびこるアメリカの、世界の病理を見事捉える。
もはや失敗の説明関数という以上のいかなる意味をも持ち得ない人間性の探求者、
脳障害のprimatesの成れの果て。ご愁傷様。お大事に。
「筆者は過去10年ほどの間、アフリカ、アジア、中南米など世界各地で霊長類の姿を追い、
絶滅が心配されている霊長類の研究や保護に取り組む研究者の姿を取材してきた。……
多様な彼らの姿は見る者を飽きさせないし、森の中で霊長類の姿を見ることは理屈抜きで
面白い。だが、その多くが今、絶滅の危機に立っている。国際自然保護連合(IUCN)に
よると地球上には亜種まで含めると約700種の霊長類がいるが、このうちほぼ60%が
絶滅の危機にあるという。そして、彼らを絶滅の瀬戸際に追いつめているのは、人間という
たった1種の霊長類の行動だ。
各国で見てきた霊長類保護の現場からの報告を元に、どうしたらこの地球上で人間と、
われわれに最も近い親類が末永く暮らし続けてゆくことができるのか、ひいては人間が
地球の生態系を守りながら、末永く暮らしてゆくにはどうしたらいいのかを考えようというのが
本書の狙いである」。
森がなくなることでそこに住まう霊長類が追いつめられるのか、霊長類がなくなることで
彼らの住まう森が失われてしまうのか。
生態系をめぐる、そんな悲惨なスパイラルの相を映し出すのが本書。
広大な森林を国土に抱えることは、つまり未開発の証。
他の例に漏れず、霊長類の問題はすぐれて経済の問題と結びつかずにはいない。
絶滅の危機をもたらす大いなる要因は食用に供されること、さりとてその行為を野蛮と
批判するのは傲慢にすぎる話。「農村部を中心に人口が増え、伐採作業や鉱山採掘などで
働く貧しい労働者が地方で増えた結果、タンパク質を取るにはブッシュミートに頼らざるを
得ない人々の数が増えているという現実がある。……絶滅の恐れが高いキツネザルなどの
狩猟を禁じる法律の執行体制を強化することは重要だが、場合によってはそれが、人々の
栄養状態の低下や病気の拡大につながりかねないと懸念する研究者もいる」。
木炭に供するための伐採や焼き畑を非効率と糾弾したところで、彼ら最貧国の経済が
救われることはないし、散々食い散らかしてきた先進国に大口を叩かれるいわれもない。
国外輸出向けの1匹の幼いペットを捕獲するために時として数匹の命が犠牲になる、
なるほど残虐には違いない。ただし、これに代わる稼ぎのモデルを見出せない状況で、
やめろ、と単に叫んだところで、誰もそんな声に耳を傾けやしない。希少種ウォッチングの
観光需要で雇用を得る人間も、生態系との折り合い上、限られてしまう。
もし仮に今、ヒトが滅びたところで、他の霊長類の危機が遠のくわけでは必ずしもない。
絶滅危惧種の多くが近親交配に終始するしかない関係上、インブリードが煮詰まってしまう
リスクを抱え込んでいるためだ。その回避は辛うじて遠隔地の種を結びつけることで
果たされるがしかし、その媒介は現状、ヒト以外の担い手を持たない。
霊長類の危機、森林の危機は、当然「万物の霊長」に危機を及ぼさないはずはない。
ある研究者は訴える。「今後の数十年が類人猿の将来を決める。貧困、政府の破綻
そして政治的不安定が支配する世界では、類人猿に将来はない。彼らの将来は我々の
将来そのものでもあるのだ」。
本書を見事に要約する。ただし答えは風に吹かれて。