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- 2020.05.10 Sunday
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「誕生日が実は虚しい日だと、歳を取るごとに感じられるのは寂しかった。
せめて、家族の誰かが『おめでとう』と言ってくれたら、少しは明るくなれるのに、
あいにく森村家には、そんな優しい人間は一人もいない。
だから今日は、夫の浩光の重い尻を叩き、近頃は母親と目も合わせなくなった
2人の息子を追い立てて、豪華なディナーを食べるつもりだ」。
46歳の誕生日、朋美は衰えを告げ知らせる鏡の前でメイクに気合を入れるも、
「あんた、すっげえ派手な化粧した、頭のおかしいおばさんに見えるよ」と高校生の
次男に茶化され、そして自らセッティングした誕生会をすっぽかされる。着飾った
姿を褒めてくれる者など誰もいない。挙句普段通りの「ママタク」運転を押しつけられ、
祝いの酒を嗜むこともできない。折角の席というのに、男どもはレストランと朋美自身に
ひたすら罵倒と嘲笑を浴びせる。
「知らないことだらけを、誕生日に責められるのは嫌」。
店を出た朋美は車に乗り込み決意する。
「家に帰るのはやめよう。皆と暮らすのは、これでおしまいにしよう」。
「愛情のない家だな」。
何だろうこの、朋美のモデル、うちの母じゃね!?問題。
怒涛の描写で身につまされ倒すも、なぜかページをめくる手と微笑は止まらない。
そんな中でもふと切なくも、爽快な描写がある。
再会を望むでもなく、何となく元カレの郷里、長崎へ旅立つ走行距離10万キロ越えの
グレイのティアナ、「朋美は東名高速に向けて、車を走らせた。新宿から甲州街道を下り、
環八通りを左に折れる。ナビには、『小牧インターチェンジ』とだけ入れた。/そして、東京
インターから、生まれて初めて高速道路に乗り入れた。料金所を通る時、浩光のETC
カードがピッと小気味いい音を立てた。……いくら運転好きといえども、朋美が車で走り
回っていたのは、駅や近所のスーパー、せいぜいが郊外のショッピングモールまでだ」。
46歳のおばさんが初体験を重ねていく。いちいちがどこか的外れで、そして初々しく、
その感覚はほとんどジュヴナイル小説のそれ。つまり家庭に縛られ、そして裏切られた
婦人版『トム・ソーヤー』、もしくは例えば『ガリヴァー旅行記』。ただし、更年期を控えなお
「知らないことだらけ」、そんなペーソスがおとな特有の読後感として滲む。
朋美の小さな成長に軌を合わせるかのように、車もその意味合いを少しだけ変えていく、
つまり一家のコモディティとしての箱から、セミ・プライヴェートな空間へと。それまでの車には
かけるCDの一枚もなかった。
そして、朋美のみならず家族4人に試練を課した通過儀礼の旅物語は、迎えるべくして
とある結末を迎える。
リアルとファンタジーの間で、探し求むべき青い鳥の姿もなく、たださまよう。
でも、どこかに希望や温もりが見えてしまうのは、私の母への甘えなのだろうか。
「自殺しそこなった羽仁男の前には、何だかカラッポな、すばらしい自由な世界が
ひらけた。
その日から、今まで永遠につづくと思われた毎日がポツリと切れて、何事も可能に
なったような気がした。その日その日が二度と訪れず、毎日毎日がちゃんと息絶えて、
蛙の死骸みたいに白い腹を見せて並んでいる姿が明瞭に見える。
トウキョウ・アドには辞表を出し、景気のいい会社なので、退職金も沢山くれた。
これで、自分は誰にも気兼ねのない生き方をすることになったのだ。
三流新聞の求職欄に、次のような広告を出した。
『命売ります。お好きな目的にお使い下さい。当方、27歳男子。秘密は一切守り、
決して迷惑はおかけしません』」。
「生きたいという欲が、すべて物事を複雑怪奇に見せてしまうんです」。
一度「命売ります」を決意したものにとっては世のことごとくがシンプルに見えて、
そして気づけば、傍らに屍を積み上げつつも、死が彼をすり抜けていく。
ところがある日、告げられる。
「あんたは、わかってるわ、あんたは死ぬことに疲れたんだ」。
そもそも彼が自殺を決行した理由は、新聞の活字が「ゴキブリ」の列に見えたこと、
「ああ、世の中はこんな仕組になってるんだな」と気づいてしまったことだった。
やがて羽仁男は認識する、記事が伝えている戦後日本の一億総中流消費社会、
それこそが「ゴキブリ」の示す正体だということを。
「つまらない、つまらない、つまらない、なんか面白いことないか、と1000万人が顔を
合わせれば挨拶がわりに言っている大都会の膨大な欲求不満。そこにうごめく無数の
プランクトンのような夜の若者たち。人生の無意義。情熱の消滅。喜びも楽しみも、
チューインガムのように、噛んでいるうちに、忽ち味がなくなって、おしまいには路ばたに
ペッと吐き捨てられるほかないたよりなさ。……ある連中は金がすべてを解決してくれると
思って、公金を拐帯したりする。公金というものが、また、日本中にあふれて、キラキラ
光っているのだ。誰の手にも触れられる場所にあって、しかも自分で決して使っては
ならない金。すべてがこの公金に似て、誘惑だけしておいて、つかもうとすれば、こちらを
忽ち犯罪者にして、社会から仲間外れにしてしまう。誘惑だけあって満足のないこの
大都会。こんな地獄が、羽仁男と玲子の快楽の墓のまわりに、牙を立てて渦巻いている」。
これだけ明確に記されて、ただしうなされた熱情にどうにも意味の通わない1968年の
このマニフェストが後の「檄」に繋がらないはずはない。
「ライフ・フォア・セール」。
不条理な設定を取れば、F.カフカや、より直接的には安部公房に触発されたとしか
思えず、ただしそううまくいっているようには見えない。
消費社会の神話から抜け出てしまった人間には逆説的に己が命さえ商取引の材となる。
言い換えれば、命の替え難さを知るとは「ゴキブリ」になること、「世の中」の「仕組」の一部に
なること。ありふれた「ゴキブリ」が「ゴキブリ」であるがゆえにこそ、「物事を複雑怪奇に見」て
「意味」を求めて煩悶し、何かを恐れ、そして何より死に慄く。物語としては一貫したはずの
このロジックが、なぜかこと主人公の変遷についてはあまり上手な説明を与えない。
ただし、この生と死の錯綜は書き手その人を強烈に訴えかける、そうした点を取れば、
三島文学にあっても屈指の作品として遇されるべきなのかもしれない。
自己実現の唯一の手段は消費。
そんな社会が辿り着くだろう必然を予言する。
「銀行の支店から、41歳になる契約社員が約1億を横領した」。そして、容疑者
梅澤梨花は発覚を前に姿を消した。
そのニュースはかつての彼女を知る者を一様に惑わせた。
高校の級友の記憶にあるのは「石鹸のように美しい少女」。昔の恋人に言わせれば、
「無欲というならば梨花ほど無欲だった女を……他に知らな」い。料理教室での知人が
言うに、「おとなしいっていうか、まじめっていうか、そんなタイプ」。
そんな彼女が顧客と虚偽の契約を交わし、その金を着服した――
遊びを知らない無難を絵に描いたリーマンが、中年にしてはじめて女にはまり、
職場の金に手をつける。たまに聞くニュース、それはまるで訳も分からないまま、
運命の女femme fataleの蜘蛛の糸に絡め取られていく谷崎『痴人の愛』のように。
その性を入れ替えてみただけか、と序盤は高を括り、それにしては異性があまりに
書けていない、と思っていたが、真相は違った。女たちの目に映る男がことごとく
平板なのだからそうした記述に終始するしかない。恋愛を通じた自己承認なんていう
退屈を極めた寝言はこの群像劇においてはいかなる居場所をも持ち得ない。
そして彼女たちは他の何かに向かうよりない(だから男がすべて悪い、などという
田嶋陽子じみた荒唐無稽を唱えるつもりはない、念のため)。
「お金というのは、多くあればあるだけ、なぜか見えなくなる。なければつねにお金の
ことを考えるが、多くあれば、一瞬でその状態が当然になる」。
蕩尽のための蕩尽のスパイラルは終息を知らず、そして突然に破綻の時を告げる。
金は交換価値を担保するためではなく、失うためだけにある。
描写の的確は、彼女たちの奢侈のほぼすべてが支払いの瞬間をもって打ち切られる
点にも現れる。衣服にいくら金を注ぎ込もうが鏡に映る瞬間に失望へと反転する。
たとえコレクション・モデルや宮沢りえに着せたところで、ありふれたマネキンの
プラスティック性を前に無残に敗れ去ることを予め約束されているのだから。外食の
歪なCPF比と塩分は、そもそも醜い肉体をさらに醜くして、その唯一の痕跡と化する。
異性とて、金を使うための契機という以上の何かではあり得ない。
すべての男は消耗品、ですらない。
その上で、梨花は気づく。
「いこう、この先へ」。
そして彼女は「進むこともできない。戻ることもできない」。
現実の唯一の機能はすなわち幻‐滅。
すべて人間は経済を循環させるためだけに生まれ落ちた。
そしてもはやコンピュータ上で時間と規模にリバリッジをかけてしまえばはるか
効率的に運用できてしまう以上、既に人間は一切の役割を終えた。
だからこそ、不可能性を知悉しつつも、あえてこの標語を叫ばねばならない。
「いこう、この先へ」。
そんな終末論を透徹した眼差しから見事描き出した快作。
「本書では、からだの中で、いつ、どこで、どれくらいの量のたんぱく質がどのように
はたらいているのか、その全体像を、タンパク質の研究者でない方々にも理解して
いただけるように記述した。また、なぜタンパク質で病気を予防できるのか、なぜ
タンパク質で病気を診断できるのか、さらに、なぜタンパク質の異常を治療できるのか
についてもできる限り詳しく説明した。これまでに出版されたタンパク質の本とはかなり
違った視点から、からだのタンパク質について考察したつもりである」。
本書の内容は新書という枠をはるかに超えてガチ、というか晦渋。
論より証拠、漠然と開いたページから(p.94)。
「抗体を用いることによって定量的に特定のタンパク質を検出したり、精製したり、
局在性を解析することができる。これを免疫化学的手法というが、この手法は
タンパク質発現解析に欠かせないものになっている。免疫化学的な手法には、
エンザイムイムノアッセイ法(ELISA)、免疫組織化学的方法、免疫電子顕微鏡法、
免疫沈降法、ウエスタンブロッティング法などがある。いずれの方法を用いる場合でも、
まず検出したいタンパク質に対するモノクローナル抗体またはポリクローナル抗体
(注11)を作製する必要がある」。
全編がこんな調子で進んでいく。もちろんこんなタームを丸暗記してもらおうなどという
非効率な意図で書かれているわけでないことくらいは分かる。その動的な性質ゆえに
プロテオームが秘めたゲノム・サイエンスとも似て非なる難しさ、あるいは面白さを
表現するという点ではある程度うまくいっているようにも思う。結論だけを中途半端に
耳障りよく紹介する安直さを避けたいという真剣さも伝わる。とはいえ、こうした記述群を
目にした上でそこから何かを得るとなれば、対象はどうにも限られてしまう。教科書や
論文ならばそれでもいい、ただし新書というのはそういう場所ではない、と私は思う。
その高度な技術や知識から導き出された結論の恩恵は何かしら受けているのかも
しれないが、実験環境にアクセスできるでもない人間にとっては、雲をつかむような話が
ひたすらに展開されていく。
筆者の知的な廉直を疑うつもりは微塵もない。
私のスペックに問題があるのも事実だろう。
ただし、一般向けの橋渡しという新書の役割に鑑みたとき、この書き口はどうなのか、と
首を傾げざるを得ない。
評価:
黒田 日出男 岩波書店 ¥ 2,700 (2017-06-29) |
「絵画作品から歴史を読み、あるいは絵画作品を歴史上に位置づける上で、注文主や
パトロンは画家と同等に重要であり、もしかすると画家以上の存在なのであろう。すなわち、
絵画を歴史上に位置づけ、それらから歴史を読むためには、注文主やパトロンの探究
こそが『王道』の一つである、と私は考えてきた。……この本の狙いを一般化して言おう。
本書は、近世以前の画家、作品群、注文主の三者を関係づける試論であり、絵画作品群の
性格や内容について、注文主(享受者であり、パトロンである存在)からアプローチする
試みである。『又兵衛風絵巻群』が、読者の眼に『松平忠直絵巻群』……としても見えて
くるようになればと願いつつ、本論の記述へ入っていくとしよう」。
「絵画作品を歴史上に位置づける」。
パブリックというシステムが当然にない時代の出来事についてこの試みを図る。
現代ならば、美術館やオークションを念頭に、同時代の文化や社会の潮流を探ろうか、
というところだろうが、いかんせん一般公開の作法がない以上、描き手同業者間の
技術的な流行り廃りといった視点はあるにせよ、パトロンに属するプライヴェートな
文脈に着目しようというのはすぐれて筋の通った見立て。
そして奇しくも、パトロン個人をめぐる探究のはずが、その背後に横たわる「契り」という
当時の道徳観をどうにも浮上させずにはいない。
なるほど、「又兵衛風絵巻群」と松平忠直のテーマ的共通性は見えた。そして、そこには
相当の説得力もあるには違いない。家康の孫にして流刑の地豊後にて生涯を閉じた忠直の
個人的な心境を解き明かす鍵として一連の作品群を機能させる、全きプライヴェートで
ありさえすればよかった17世紀当時の絵画事情に鑑みれば、それで十分なのかもしれない。
しかし、本書がどうにも不足なのは、絵巻のモチーフとしての物語の論に終始して、
絵画自体への分析にはほとんど話が向かっていかない点に由来する。そのことは、
表紙を除けば、ただの一枚としてカラーグラフが存在しないという点に如実に表れる。
パーソナル・ヒストリーに終始して、美術史としては片手落ちとしか私には思えない。