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    パブリック・ディフェンダー

    • 2017.09.28 Thursday
    • 22:01
    評価:
    アビー・スミス,モンロー・H・フリードマン
    現代人文社
    ¥ 3,456
    (2017-08-10)

    「『なんで、あんな奴らの弁護ができるのか?』すべての刑事弁護人はこの質問を

    受ける――家族から、友人から、ありとあらゆる人たちから、それほどまでに、

    この質問は刑事弁護人の経験の一部になっているので、『お定まりの質問』として

    知られている。……真に問われていることは、『あなたは、有罪と知っている人を、

    いかなる論拠で、弁護できるのか?』ということである。……お定まりの質問または

    関連する質問に対する正しい解答はない。1人ひとりの弁護士が、その仕事を行うに

    あたって自分自身の理由を持っている。本書は、これまでに集積されたお定まりの

    質問に対する回答を集めた初めてのコレクションである」。

     

    「私は、この仕事から大きな利益を得られることを利用していたに過ぎない」。

     そんな理由を明かす者もいる。過剰な法律家を抱えるアメリカにあって、パブリック・

    ディフェンダーに与えられるサラリーや保険は決して悪いものではない、という。

    「刑事訴訟では、トランプのカードが不公正に検察官有利に積まれているので……

    弱者として勝つこと、そして、明白な形で勝つこと……は、実に甘美なものです」。

     そんな私的「興奮」を理由のひとつに挙げる者もいる。

     なるほど、確かに「正しい解答」はない。ただし彼らには憲法の理念の下で社会的な

    責務を担う、という現実がある。言い換えよう。「お定まりの質問」にはとある含意がある、

    つまり、「あんな奴ら(those people)は、我々(us)ではない」。対して、合衆国憲法を受けて

    「刑事上の罪に問われた者は、資力のいかんにかかわらず、弁護人の援助を受けると

    いう約束」を判示した「ギデオン判決」が法の下を生きる「我々」に弁護を受ける権利を

    保障している以上、「我々」のひとりとしての弁護人には「約束」を完遂する責務がある。

    弁護は黒を白と従える弁論術を必ずしも意味しない。黒を黒として刑罰を付する際にも、

    刑事司法手続きの正当性、正統性は問われねばならない。

    「自由社会では、政府の圧倒的な権力に対するカウンターの存在が不可欠である。

    なぜなら、権力はそれを行使する人によって容易に濫用されるからである。……

    『あんな奴ら』が、たとえ他の人々や社会に対して最悪の犯罪を行ったとしても、

    『あんな奴ら』を弁護することで、刑事弁護人は、公務員による権力の濫用を制約する

    ことや自由社会の基本的価値を守ることによって、私たち1人ひとりに奉仕している」。

     すべて法廷は、「我々」の、「我々」による、「我々」のための法廷として開かれる。

     まさしく彼らがパブリック・ディフェンダーたる所以が見える。

     

     薬物を典型に、犯罪に走る者の境遇は往々にしてあまりに孤独。私選弁護人を頼む

    財力も知己もない。彼らの声に耳を傾ける者もない。他者へと届かせる術も知らない。

     だからパブリック・ディフェンダーが彼らの話を聞き、代弁することで橋を架ける。

     被告人は時に司法プロセスを通じてはじめて「我々」となる。

     

    「あんな奴ら」をめぐるこの問いは抽象論の域を出て、アメリカの姿を生々しく映し出す。

     そこには例えば人種差別という問題がある。例えば「2009年、ニューヨークでは50万人

    以上が警察官によって職務質問を受けたが、そのうちの87%がアフリカ系アメリカ人ないし

    ラテン系アメリカ人であった」。身体検査の結果に、人種と不法所持の相関性を示す統計的

    論拠は特にない。にもかかわらず、「今日生まれたアフリカ系アメリカ人男性の3人に1人が、

    生涯のどこかの時期で刑務所に入る運命にあり、ラテン系アメリカ人男性では6人に1人が、

    刑務所に入る運命にある。対して、白人男性ではわずか17人に1人」で、その帰結、

    今や収監される黒人の数は19世紀の黒人奴隷の数を上回り、たとえ釈放されたとしても、

    前科を理由に選挙権その他の制約に服し続ける。

     

     例えばアメリカの現大統領は就任演説を8000万人の国民に向けて呼びかけた。つまり、

    自身に票を投じた者の他に「我々」はいないことを断言してみせた。日本の首相もとある

    街頭演説において、「あんな人たち」と宣い、支持者は熱烈な拍手でそれに応えた。

    ○○ファーストとて、その適応外を「あんな奴ら」と排除する試みに他ならない。

     本書が時に虚しいのは、現代政治状況の必然を逆説的に説得してしまう点にある。

    「なんで、『あんな奴ら』の弁護ができるのか?」

     一般市民が何気なく発するその「お定まりの質問」、発させてしまう風土それこそが

    問題なのだ、ということに世界は最後まで気づかない。その際において、立憲主義は

    「割れ鍋に綴じ蓋」としてバックラッシュをかえって加速させてしまう。

     

     その傍らで、論者は「我々」の営みとしての「法の支配」に日々努める。

     いみじくも回答者のひとりが綴る。

    「私が『あんな奴ら』の弁護をする理由は、私にはわからない。私がこれまで『あんな奴ら』に

    出会ったことがないのが問題なのだと思う」。

    空虚な中心

    • 2017.09.28 Thursday
    • 21:56

    「花園という地名はほうぼうにある。M県だけでも三つある」。

     つまりはどことでも代入可能な、かつて温泉で栄え、そして枯渇した町。

     雪の夜、そんな町を1人の男が訪れる。彼はかつて花園で暮らしたことがあったという。

    男は間もなく薬をあおり自殺を図る。知らせを受けた「ひもじい同盟」の指導者、花井は

    町立診療所に運び込む。所長を託された森はその知らせに胸の高鳴りを抑えられない。

     というのも、2か月が経とうかというのに、「彼はこの診療所に赴任してこのかた、まだ一人の

    患者も見たことがなかったのだ。いや、来てみると、診療所というのは名ばかりで、実際には

    そんなものはなかったのだ。彼は患者に飢えていた」。

     

     花園の町には議会の補欠選挙を控える。とはいっても過去「連続七年、無投票選挙」、

    新聞はその点を「美風」と称え、今回においても「コン談、無投票にて解決にいたるを

    期待」してやまない。

     実はこの診断所なき所長の森は、町で唯一の私立医院を営む政敵を牽制すべく

    町長が送り込んだ刺客だった。

     権力闘争を繰り広げつつも同じ組織に身を置く、同床異夢の派閥の領袖。何かに似ている、

    などともはや伏せるまでもない。つまり、明確な55年体制の寓意である。

    「ひもじい」という語はそもそも花園では「流れ者」を指す。聖穢兼備のアウトサイダー、

    町の神「ひもじい様」をまつる峠の茶屋を営んでいたのが、革命を夢みる花井の生家。

    彼はその実現を、地中に眠る温泉の活用を通じて達成せんと試みる。

     

     戦前には天皇が、戦後は一転アメリカが担う日本の中心。「挙国一致」と言おうが、

    「国民政党」と言おうが、いずれもその出先機関というに過ぎない。

     本書のアプローチに決定的に抜け落ちている、としか私には見えないのは、こうした

    中心の存在が語られない点にこそある。

     作中、こんなセリフを町長が吐く。

    「民衆は真の支配者をもとめる……支配者とは社会秩序の象徴だ。象徴とは目に

    見えないあるものだ。支配者はなるべく人目にふれることをさけ、謎につつまれて

    いなければならないのだ。身代りをおき、その陰にかくれて、風のように噂の中だけで

    生きていなければならぬ。私が謎につつまれているかぎり、私がなにをしようと、

    民衆は納得する」。

     さて「真の支配者」の意味をどう読み解けばいいのだろうか。

     そして本書最大の疑問は、政治家という風よけを担ぐことで、玉虫色の恩恵を享受する

    名もなき「民衆」の姿が確認されずじまいであること。「身代りをおき、その陰にかくれて、

    風のように噂の中だけで生きていなければならぬ」とは一面では天皇制を思わせつつも、

    まさに戦後民主主義をまとめてみせる。にもかかわらず、本書が映し出すのは名と属性を

    与えられた人々の政争劇の悲哀にすぎない。天皇を天皇たらしめるもの、アメリカを

    アメリカたらしめるもの、それらはすべて大衆性を通じてその唯一の説明を付与される。

    どこか連想を誘わずにはいない『万延元年のフットボール』、大江の天才が英雄伝を瞬時に

    後景へと追いやって、匿名の大衆のうねりを描き出してみせたことに思いを馳せれば、

    劣らぬ資質を有する安部だからこそ、物足りないと言わずにはいられない。

     少なくとも私には、本書は終始寓意をこじらせて、接続に失敗しているようにしか思えない。

    京都迷宮案内

    • 2017.09.28 Thursday
    • 21:52

    「なぜこれがこんな高いおねだんなのか、なぜあれがあんな安いおねだんなのか、

    なんでそれが無料なのか、あるいはそもそもこんなものあんなものにどうしておねだんが

    つくのか――京都では往々にしてそういうよくわからない局面で出くわす。京都人は

    何にどれだけ支払うのかという価値基準が、ほかの地域とはいささか異なっているように

    思えるのだ。

     そこが、京都を京都たらしめているゆえんなのかもしれない。もしかしたら、京都の

    『おねだん』を知ることは、京都人の思考や人生観を知ることなのかもしれない」。

     

    「なぜ、着物であっちにいきこっちにいっている種族が京都では多数生きながらえて

    いるのか」。そんなリアルな「おねだん」が時に顔をのぞかせる。

     曰く、「京都では公示地価に比べて実勢の地価が高く、その実勢の地価と上の建物を

    あわせた不動産全体の資産価値はさらにはね上がる。……比較的安い税金で高い

    価値を持つ不動産を保有できる――ということは、田の字地区内部に代々の土地を

    持っていて、うまく活用できると、あまり経費を使わずに旦那でいられる」。

     こうしたアンリトンな価値は部外者には見えてこない、結果、「京都は地元の地方銀行・

    信用金庫が、京都市内の貸出残高・預金高のうちシェア75パーセントを誇る。つまり、

    経済的にも『一見さんお断り』状態で、モノの価値がわかる地元の人どうしでお金が

    ぐるぐるまわっているわけだ」。

     価値観の共有はしばしば文化の共有を通じて確認される。

     かくして旦那は今日も花街に金を落とし合う。

     

     お茶屋さんの「おねだん」を探るべく、筆者は実際に祇園を訪れる。そして気づく。

    「京都の古い店の支払いは、後日ご請求書をいただいてからだ。……このシステムは

    店と客との信頼関係がある限りは、半永久的に関係が続くというもので、請求書はまるで

    ラブレターのように両者をつなぐ。……おねだんには、決して定価があるのではない。

    店と客の、人と人との『関係』のおねだんであり、それは請求書を受け取った客が己の

    価値を知る数字である。それにしても、『先に金額を決めている方がおかしいと思います』

    とは、〈おねだん〉の概念について、現代人に根本的に再考を迫る言葉ではないだろうか」。

     

    「京都ではなにか困ったことがあれば、その小学校区の実力者に相談するのが鉄則で

    ある。実は京都は『小学校区で出来ている街』だ」。

     そんな内部ルール蠢く自治の街の頂に、京都大学なるパワースポットが君臨する。

     事実は小説より奇なりを地で行く、衝撃トリック満載の本格京都ミステリー。

    文春砲

    • 2017.09.24 Sunday
    • 21:17
    評価:
    吉田 修一
    文藝春秋
    ¥ 1,944
    (2016-03-19)

     2014年のノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイのことば。

    「一人の子供、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンでも、世界は変えられる」。

     

     本書は一見したところ、バラバラな属性の人々の群像劇。

     ある者はビール・メーカーの課長職、ある者は都議会議員の妻、ある者はテレビの

    ドキュメンタリー制作者。家族のあり方もさまざま。

     ただし彼らはみな、それぞれに真実に葛藤し、秘密と関わるという点では共通する。

     ある者は、「不感の湯」に浸かりながら、「人の噂も七十五日」と時の経過をただ祈る。

    ある者は「俺は正しい。なんでそれが分からない」と猛り狂う。ある者の選択する態度は、

    「何も聞いてない」。

     なぜか玄関の前に置かれた酒と米。なぜか買い物かごに迷い込むモモやカニの缶詰。

     やがて彼らの運命が交わる。

     

     彼らは過ぎ行く季節の中で同じニュースを共有し、そして未来を共有する。

     本書の連載媒体は、よりにもよって『週刊文春』。

     その自己言及性の一点で押し切っているような作品。

     作中でとある人物が語る。

    「あの時に変えればよかったと誰でも思う。でも今変えようとはしない」。

     一方でこう叫ぶ者もある。

    「もう誰にも変えられないんだ!」

     ある人物はふと自覚する。

    「羞恥心を持たない声は、どんなことでも言えた」。

     こんな具合に、書き手当人が折々にテーマを言語化してくれる以上、そしてネタバレにも

    なる以上、さして訴えるべき声もない。あるいは臆面もなく、「いつやるの? 今でしょ」とか、

    クソ寒い声で茶を濁すべきなのだろうか。

     そして世界は果てしなく無残にできている。殺すより他に使い道のないサルのカーニバル、

    脊髄反射のネタ消費しかできない社会に、届く声などはじめからない。

    ないない尽くし

    • 2017.09.24 Sunday
    • 21:12
    評価:
    マドレーヌ・ピノー
    白水社
    ¥ 1,296
    (2017-08-30)

      人類の獲得した知識を分類しようとする関心は古典古代にまでさかのぼり、中世で

      弱体化した。このように、ダランベールは中世を一種の「停滞期」とし、知的営為と

      しての編集の歴史を『百科全書序論』で規定している。しかし中世をつうじて残された、

      工芸に関する内容をふくむ写本は数知れない。その内容の大半は、アラブ人学者らに

      よって複製された古典古代の知識であった。

     

     と書き出しを引用しては見たが、全編がこのような調子で進む。

     何を明らかにしたいのか、どういった方向に話を持っていきたいのか、ごく基礎的な

    目的意識も示さないまま、ただいたずらに描写が進む。編集過程をめぐる群像劇が

    活写されるわけでもない。知の系統樹という書物の特性が詳らかに語られるでもない。

    無断引用がなされているという事実に触れこそするが、具体的に踏み込むでもない。

     そのわりに、なぜかご丁寧に、もはや素性を知るための手がかりすらも往々にしてほぼ

    尽きている執筆者の略号表なんてものは紹介されたりもする。ところが、肝心の本文や

    図版への分析に絡めるでもないし、彼らの履歴などに肉薄するでもない。

     筆者の略歴を見ればルーヴル美術館の元学芸員とあり、図版研究を専門としている

    らしいのだが、そうした特性も何ら生かされることはない。

     

     裏表紙には「入門書」となってはいるが、これを読んで誰が『百科全書』本体に興味を

    持つというのだろうか。

     これほどまでに長所の見えないテキストも珍しい。