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    「人間は万物の尺度である」

    • 2017.10.31 Tuesday
    • 22:22
    評価:
    ---
    本の雑誌社
    ¥ 1,728
    (2015-02-05)

    「この本は、新聞記事を元に仕上がっている。中国地方を主な発行エリアとする

    地方紙、中国新聞……が2002(平成14)年12月からほぼ半年にわたり、その朝刊

    紙面で連載した企画報道『猪変』である。……すべての始まりは、後に取材班に入る

    記者が小耳に挟んだ話だった。

    『海を泳いで、島に渡るイノシシがおるんじゃげな』」。

     

     中国五県の自治体を対象に行ったアンケートによれば、2002年度に投じられた

    イノシシ対策費の総計はざっと76000万円、にもかかわらず、環境省、農水省の

    統計によれば、同年度の被害額は全国で50億円で超える。

     さりとて「数を捕れば片付くという問題ではない」。実際、2007年以降、捕獲数を全国で

    2倍強に増やしたというのに、被害額はそれに比例するかのように伸びる一方。

     理由についてある研究者は「田畑の作物の味を覚え、人里近くに居着いたイノシシを

    捕らないと、被害は減りません。人を恐れ、奥山にとどまっているイノシシまで猟犬や銃で

    追い散らしたら、かえって逆効果」と証言する。その実証例がまさに泳ぐイノシシである。

    山を追われ海に逃れ、島を追われれば、数キロの海をまたぎ、安芸灘の島々を跋扈する。

     ところが2013年、政府は「抜本的な鳥獣捕獲強化対策」なる施策を打ち出した。曰く、

    これからの10年でニホンジカやイノシシを半減させる。しかし現状、「科学的な見地から

    生息頭数を推定し又は適正生息頭数を算出する方法は確立されていない」。かくして、

    「『獣害』対策のはずが、いつの間にやら『害獣』対策にすり替わって」しまった。

     農家の悲鳴を耳にした善意の発露なのかもしれない、しかし方向性はなぜかちぐはぐ、

    そんなトップダウンを尻目に、例えば島根の山間、美郷町では「獣害に泣き寝入りせず、

    何とかしたい農家が自ら立ち上がる。……『猟友会』『行政』『補助金』への依存こそが

    問題を長引かせる、ぬるま湯体質の元だと気づいた」。例えば侵入を防ぐワイヤメッシュの

    表裏に気を配るだけで効果は段違いになる、研究者が実地を観察して回った成果だった。

    脂の乗りが悪く、足の早い夏の猪肉をヘルシー食材として売り出した。「有害捕獲にばかり

    目をくれず、何よりまずイノシシを近寄らせない環境づくりに力を注いできた。箱わなに

    入った獲物は食用や皮革加工に回し、地域経済にもつなげてきた。/人材にせよ知恵にせよ、

    地域にあるものをまず生かしきる。補助金に頼らず、自主自立の道を切り開いてきた美郷流の

    地域哲学は、研究者との協働がもたらしたともいえる」。

     

     餌付けで人間への恐れを解いたイノシシに恐れをなし、そしてイノシシは「害獣」となった。

     農業、林業の先細りから手入れの行き届かなくなった里山はいつしか奥山との境をなくす。

    かくして山を下って農地に踏み込むことを知ってしまったイノシシにとって、田畑はご馳走の

    転がる宝の山と化した。荒廃した耕作放棄地の茂みは格好の隠れ家として機能する。

     そもそも芸予諸島にはびこるものの大半はイノブタ、そんな指摘もあるという。

     イノシシが変わったのではない、人間が変えてしまったのだ。

    沈黙

    • 2017.10.31 Tuesday
    • 22:15

    「家族の過去がこれほど恐るべきものであるとき、それとどうやって折り合いをつけて

    生きられるだろう。ナチ高官の子どもたちがとった立場は、ときに正反対のものとなった。

    親の立場に同調する者もいたが、中立の立場でいられた者はほとんどいない。ある者は

    父の行動をきっぱりと拒絶するにいたっても、父への愛をもちつづけた。ある者は『怪物』を

    愛することができず、絶対的な親への愛を守るために、親がもつ暗黒の面を否定した。

    さらにある者は憎しみを抱くようになり、父を拒絶した。親の過去は足につながれた鉄の

    玉のように子に伝えられ、子はそれをつけて日々をすごさなければならず、無視することは

    できないのである。まったく否定しない者もいれば、宗教の道に進む者、さらには、あとの

    世代に『病気を伝えない』よう不妊手術を受ける者、罪をあがなうためとして……自慰行為に

    走る者もいる。罪を否認するにせよ抑圧するにせよ、賛同するにせよ罪責感を抱くにせよ、

    すべての者が意識するしないにかかわらず、自らの過去と向き合うために自らの道を

    選ばなければならなかった」。

     

     その人は娘を「お人形さんPüppi」と呼んだ。そんな「ピュッピ」は、終戦を迎え過去を

    知らされてなお、父性愛に包まれた自身の記憶に忠実に服し、「適当な距離をとることもなく、

    無条件で、あの愛情深い父親を崇拝」した。姓を告げれば「たちまち制裁を受けた。解雇され、

    住まいから追い出された。けれども父の名を守りたかった。同僚や働いている店の客たちは、

    いずれも彼女と付き合うのを避け」た。そんな仕打ちが「ピュッピ」を頑なにしたのでは、

    そう筆者は推察する。やがて彼女は極右、ネオナチの積極的支持者となった。「彼女にとって、

    父の記憶に敬意を表することは、ナチのイデオロギーに賛同しそれに関与することとセットに

    なっていたようである」。

     

    「『ハイル、ヒトラー』と敬礼したら、激しい平手打ちをくらったこともあった。直接総統に

    呼びかけるときは、『ハイル・マイン・フューラー(わが総統)』と言わなければならないのだった。

    父の厳しさは子どもの心に深い傷を残した」。

    「マイン・フューラー」への限りなき忠誠の証として、息子はアドルフを名前の一部に付された。

    国家社会主義信仰を失った彼において、その空洞はカトリックをもって埋め合わされた、

    いみじくも「国家社会主義とキリスト教」は「イデオロギーの面で競合関係にあ」った。

    後年、彼は口を開いた。「私は沈黙してなければならなかった。父の息子として発見され、

    追及されるのではないか、ナチ体制が犯したすべての罪を糾弾されるのではないかという

    恐れ――根拠のあるものであれ、ないものであれ――から、黙っていなければならなかった。

    ナチの罪は、私がその間に知ったものだ。過去について、過去に彼らが自らの責任で行った

    ことについて、親と話す機会はもうないのだ」。

     

     本書は独自取材の産物ではなく、ほぼ先行文献のコラージュで成立する。幸か不幸か、

    親ほどに歴史の究明が進んでいないために、彼ら自身への記述は実のところ薄い。

     とはいえ、その生きざまは、「『知る』ことと、『受け入れる』ことは別」というドイツ国民における

    戦争責任論の十字架を一身に引き受けたものとも見える。戦後大衆は鍵十字旗に責任を

    なすりつけ、ひとまずは沈黙を選んだ。ところが、「ナチの子どもたち」は否応なしに向き合う

    ことを強いられた。「感情的に近ければ近いほど、判断を下すのに必要な距離をとることが

    難しくなる。……父が怪物だったのを知っていた、でも父を愛していた、と言うのは難しい。

    このように認められるようになるまでの道は険しく、障害に満ちている」。

     別に、これはホロコーストという極限状況に限ったジレンマではない。

     典型的には性衝動や万引きといった事例が示すように、人格的にごく「普通」であることと

    犯罪性向は、実のところ、大概の場合において矛盾を来すものではない。

     大衆は、自らの「普通」を免罪符に、ナチの幹部を「怪物」とすることで逃げおおせた。

     

     ところで、アウシュヴィッツを生き延びたユダヤ人作家、プリーモ・レーヴィは指摘する。

    「怪物は存在する。だが、本当に危険な者はごくわずかしかいない。もっと危険なのは

    普通の人間である」。

     過去の悲惨にもし一点の慰めがあり得るとするならば、「普通」であることの危うさ、

    自らに内在する「怪物」の可能性を教訓として学び、繰り返しを避けることにのみある。

    オーガニック

    • 2017.10.29 Sunday
    • 21:27
    評価:
    井上 祐一,小野 吉彦
    柏書房
    ¥ 3,024
    (2017-06-01)

    「フランク・ロイド・ライトは、『有機的建築(Organic Architecture)』の提唱者として

    知られています。……生き物(植物、動物)が環境に適応し、生命を維持するために、

    本来もっていた形態や機能を変化させて進化したように、『かたちと機能はひとつの

    もの』……であるというのです。建築においても、もともと生命がもっている『内部に

    根づいた本質』『生得的な原理』をもとに設計することで、内外が一体となる連続性を

    もった空間が成立するとしています」。

    「ライト式」なる語は、「ライト設計の帝国ホテルに対する呼称として生まれた」という。

    そしてこの語は、「多様な表現の用語を生み出して一世を風靡し、建築界のみならず

    一般社会に一種のブームを巻き起こしました。この強烈な旋風は、10年あまり続き

    ましたが、やがて表舞台から姿を消しました」。

     なるほど、「ライト式」の粗製乱造は流行の気まぐれと景気悪化に伴って滅びた。

    ところがどうして、ライトの弟子たちの手による建築物には今なお生き永らえるものが

    存在する。そんな真正の「ライト式」をめぐる旅が本書。

     

     眼福、とはまさに本書のごときを指して言う。

     それはまるで映画のセットを思わせるような、重厚にして華麗、さりとて豪奢に

    溺れるわけでもない。そしてその印象をさらに強くするのは「『有機的』という言葉、

    つまり『一体化された統合性』に裏打ちされている。言い換えれば、家具や照明器具

    などは建築と一体のものであるから、すべてが同じ設計者の手で同時にデザイン

    されることになる」。これらを指して昭和モダンというのだろうか、ランダムにめくっても、

    とにかく一枚一枚がカットとして完成されている。分業化が進んだことで、こうした調和を

    コーディネイトすることはもしかしたら難しくなっているのかもしれない、だとすれば、

    まさしくお金では買えない何かがそこにはあるのだろう。

     しかもそれでいて圧巻なのは、まもなく1世紀が経とうかというのに、これらのうちの

    少なからぬものが今でも住居として営まれている、という点にある。当然、風雨の摩耗は

    避けられない。手入れにもコストがかかるだろう。さりとてアンティーク趣味に根差した

    クールとも違う。これが「有機的」のなせる業なのだろうか。

     

     不満と言えば、間取図がないことくらいだろうか。とはいえ、住人のプライヴァシーや

    セキュリティを考えれば当然の措置とも思える。

    「ライト式」との表現が示唆するように、F.L.ライトというよりは一番弟子・遠藤新の本である。

     ユニヴァーサル・デザインなる語が示すように、「機能」の定義は時とともに変わりゆく。

    ただし、空間芸術としての壮麗は容易く朽ちるものではない。

     今に息づくその才能が再発掘された、というだけで価値ある一冊。

    老舗の品格

    • 2017.10.29 Sunday
    • 21:24

    「菓子は食生活のなかで考えると、あくまでも嗜好品であり、日常の生活において

    別段食べなくとも困らないものです。しかし、嗜好品であるからこそ、菓子は私たちの

    生活に潤いを与えてくれます。なおかつその存在は、日本の歴史・文化・伝統の上に

    成り立っています。……少し大げさな言い方になりますが、小さな和菓子のなかには

    日本文化が凝縮されているのです。/小さな日本文化たる和菓子の成り立ちを考える

    とき……私は五つの段階から考えてみたいと思います。それは、/1. 果実や木の実/

    2. 餅や団子/3. 唐菓子(からがし、からくだもの)/4. 点心(てんじん)/5. 南蛮菓子/

    5つでこの段階を経て17世紀後半の京都で和菓子は一応の大成を見たのです」。

     

     本書において圧巻なのは何と言っても老舗なるもの歴史である。

     京都は今宮神社の参道であぶり餅を提供する一文字屋和輔、日本最古の飲食店、

    創業は1000年だという。

     例えば貞享五年(1688年)のこと、京都の虎屋に公家の誕生祝の発注があったとの

    記録が残されているというのだが、その主は水戸光圀。さしもの『大日本史』の起草者も

    300年以上の時を隔ててそんな記録が留まろうなどとはまさか想像だにしないだろう。

     時代はかなり下るが、菓子がどれだけ好まれたのかを把握するに格好の統計がある。

    明治19年の東京府のデータ、「都市部に相当する区部における菓子屋は4963軒と

    2位の米屋1954軒を圧する数字でした。また、菓子屋はパン屋や料理屋のように

    都市部だけに特徴的な業種だけではなく、農村部(郡部)でも他の業種を抜いて、

    両者をあわせた数は6000を優に超えています」。

     そんな過当競争を生き抜いて、後世に史料までも残してしまうのだから、恐ろしい。

     

     とはいえやはりどこか隔靴掻痒の感は否めない。

     そもそも「図説」と銘打つ割に口絵の数は物足りず、看板倒れは否めない。

     鎌倉時代の「中国では、定時の食事以外にとる軽食を点心と言っていました。中国に

    学んだ禅僧や中国人僧侶は、禅宗とともに点心の習慣を日本へ持ってきたのです」。

    この「点心」ともに持ち込まれた茶の風習が、日本の「菓子」の確立の画期となったことは

    たぶん疑いようはないのだろう。では、それ以前の史料においても既に登場する「菓子」は

    どのように位置づけられていたのだろうか。例えば骨格標本から探るに、当時の栄養が

    現代的な水準から判断したときに十分なものであったとも見えず、だとすれば「嗜好品」と

    いう位置づけにはそもそもふさわしくないとしか思えない。

     上生菓子って技巧の限りを尽くした上で、基本的には餡。羊羹も饅頭もつまり餡。

    なぜここまで「菓子」が餡に執着するのか、という謎が解かれない点も腑に落ちない。

     

     享保二年、時の将軍吉宗は隅田川の両岸にサクラの植樹を命じる。やがて江戸の

    庶民を引きつける名所となるのだが、管理には当然先立つものを要する。その調達に

    寄与したのが桜餅。目で、口で、サクラを楽しみ、そのお礼に維持費用を置いていく。

    なんと見事な循環だろう。

     それに引き換え、現代の醜態の嘆かわしきや、あな麗しき江戸の花見か。

    homo patiens

    • 2017.10.25 Wednesday
    • 22:44

    「『夜と霧』がみすず書房から出版されたのは、1956815日。この本の翻訳では

    世界で二番目に早かった。日本は実は、早くから、そして長いこと、フランクルの本を

    大切に読み継いできた、フランクル愛読者の国なのだ。

     1990年代には、フランクルの講演録『それでも人生にイエスと言う』などのシリーズが

    春秋社から出されるようになり、『生きる意味』を語る思想家としてのフランクルに、

    新たな光があてられた。

     そして、東日本大震災の後、再び注目されるようになった」。

     

      私たちはそれでも人生にイエスと言おう

      なぜならその日はいつか来るから、私たちが自由になる日が!

     

    「ブーヘンヴァルトの歌」の一節、そのはじまりは強制収容所の所長の気まぐれだった。

    囚人たちに歌わせるための歌を囚人たちに作らせる。「朝、昼、晩と歌わなければならず、

    収容所の楽隊が演奏するのに合わせて囚人たちが鞭で打たれたりした……寒いなか、

    何時間も立たされた後で、この歌を元気に歌いながら所長の前を行進しなければならず、

    歌が下手だとやり直しをさせられた……自由な意志で好きなときにうたったわけではなく、

    疲れているのに、嫌々うたわされた行進曲でもあった。/それでも、この歌は、歌詞も曲も、

    囚人とされた人たち自身の表現であったし、うたわされたのだとしても、そこに自分たちの

    意志をこめることができたのだ」。

     作詞したのはユダヤ人、後にアウシュヴィッツに送られ、親衛隊員の暴行で命を落とした。

     

    『一心理学者の強制収容所体験 Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』は1946年に

    ウィーンで上梓された。初版3000部、2刷をもって絶版。

     評判になっていたわけでもない、誰かに勧められたわけでもない、ドイツ留学中の日本人

    研究者がこの本に出会ったのも、書店の店先のほんの偶然からだった。

     彼はウィーンに書き手を訪ね、居酒屋のテーブルを共にする。その出来事を述懐する。

    「最も印象的だったのは、……彼からアウシュヴィッツの話をきいた時であった。謙遜で

    飾らない話の中で私を感動させたのはアウシュヴィッツの事実の話ではなくて……彼が

    この地上の地獄ですら失わなかった良心であった」。

     邦訳の許可は彼自ら取りつけた。編集者の提案で強制収容所の記録写真を追加した。

    中づり広告のコピーには「一千万人を虐殺した鬼気迫る 大殺人工場の実態」と謳った。

    タイトルは話題の映画から借用した。かくしてテキストは異例のベストセラーとなった。

     彼の名は霜山徳爾、訳書の表題は『夜と霧』という。

     大学教授の霜山は専門学校でも教鞭を取った。そしてある時言った。

    「人間は、宗教で自殺を禁じなければならないほど死に魅せられる、弱い存在である」。

     戦中、霜山は海軍の実験心理研究部に配属され、鹿屋では特攻隊を見送った。

     そして2009年10月、90年の生涯を閉じた。

     

     解放までの2カ月弱を「119104番」はテュルクハイムで過ごした。

     疫病のはびこる収容所で「重要な出会いがあった」。

     所長は「囚人を殴ることを禁止して、追加の衣服や食べ物を与え、自費で薬を買った。

    しかしながら、極度の疲労や、チフスなどの病気の蔓延により、数百人が死んだ」。

     解放40周年の記念式典に招かれたフランクルは壇上で所長への感謝を捧げた、

    スピノザのことば、「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」を添えて。

    「あいかわらず、ひとりひとりの人間を個人の罪で判定するのではなく、国民全体に

    対しての共同の一括判定を下すような世界観の地平に立っている」ことを彼は生涯

    訴え続けた。その背後に絶えずこの「出会い」があったことは想像に難くない。

     ただし、式典に所長が同席することはかなわなかった。

     そのとき既にカール・ホフマンは他界していた。自殺だった。