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    リバー・ランズ・スルー・イット

    • 2017.11.30 Thursday
    • 22:28

    「毎年どれだけの女性がレイプ被害にあっているかを断言するのは不可能だ。性的暴行の

    広がりを数値で表すには、かなりの部分を推測に頼らなければならない。暴行を受けた人の

    少なくとも80パーセントが当局に届け出ていないのだから。本書が目指すのは、これほど

    多くのレイプ被害者が警察に行くのをためらう原因は何なのかを理解すること、そして

    被害を受けた人々の観点から性的暴行の影響を認識することである。

     そのために、わたしはアメリカのあるひとつの町――モンタナ州ミズーラ――で2010年から

    2012年に多発した性的暴行について書くことにした」。

     

     被害者の真の敵は、法廷で対峙する被告人だけではなく、むしろあまたの「レイプ神話」

    だったのかもしれない。

     ミズーラの法廷で、レイプ研究の権威は「教育的証言」を求められてこう応じた。

    「『レイピスト』という言葉を聞くと、多くの人は『スキーマスクをかぶり、ナイフを振りかざし、

    茂みに隠れ、家に押し入る男を思い浮かべます。それはぞっとするイメージですし、実際に

    そういうことは起きていますが、……レイプの圧倒的多数、優に80パーセント以上が、実は

    顔見知りによる犯行なのです』」。

     この博士は同時にもうひとつの神話を明らかにした。

    「顔見知りによる暴行はそれほど深刻ではなく、それほど深刻な被害はない」と考えられて

    いるが、「研究によれば、顔見知りによる暴行の被害者は、見知らぬ人による暴行の被害者と

    同等に影響を受けています」。

     被害は単に身体的な外傷や性病、妊娠リスクに限らない。証言台で被害者はレイプにより

    自らが失ったものを訴えかけた。「わたしは、審査会に行って、毎日感じる苦しみを軽くして

    くださいと頼んだりはしません。フラッシュバックや、悪夢や、不安を消し去ってくださいとも。

    安全と安心の感覚とか、人への信頼感を取り戻させてくださいとも。無邪気な気持ちや

    喜びとか、彼に吸い取られた人生を返してくださいと頼んだりもしません」。あるセラピストは

    PTSD発症におけるレイプと戦争の類似性を指摘する。この刻印において、ストレンジャーと

    知人の性的暴行を隔てるものは何もない。

     

     先の研究者による男子大学生を対象にした調査によれば、そのうちの6.4パーセントが

    レイピストと認定され、しかもそのうちの6割は常習犯だった。これだけでもショッキングだが、

    ヒアリングはさらなる驚愕の事実を用意していた。

     統計に表れない彼ら隠れレイピストの大多数はその自己認識すらも欠いていたのだ。

     知人を酒やドラッグで酩酊させて連れ込んで性交渉に及び、ただし彼らは自ら思い描く

    「レイプ神話」の外側にいた。彼らにとって無抵抗はすなわち容認の証だった。その後に

    被害者に続くトラウマとの闘いなど、まさか知る由もない。

     そして一方、彼女たちはしばしば詐病、虚言を疑われ、セカンドレイプの渦中に置かれる。

     

     ミズーラの法廷は、もうひとつの狂気を伝える。

     本書が中心的に描き出すとある訴訟で被告人の弁護を担ったのは、その少し前まで

    主席検事補として郡の性的暴行案件を仕切っていたいわゆるヤメ検だった。つまり彼女は、

    刑事裁判において検察側の挙証に要求される「合理的な疑いを差し挟む余地がない」

    基準の厳しさを誰よりも知り尽くしていた。

    「弁護人の仕事とは――特に、罪を犯した者を弁護する際――あらゆる合法的な手段を

    用いて、『すべての真実』が明らかにならないようにすることなのである」。

     果たして弁護人は無罪を勝ち取る。

     後日談がある。それから間もなく彼女はミズーラ郡の検事選に立候補したのだ。

     このキャンペーンの中で、彼女は自らをこう売り込んだ。

    「犯罪被害者は、自分に落ち度がないにもかかわらず、裁判手続きを余儀なくされる。

    思いやりとは、家族に接するときのように被害者と接するということであり、われわれは

    客観性を失うことなく、被害者のトラウマや恐怖心に誠実に向き合いながら、刑事司法

    制度の水先案内人とならなければいけない」。

     そして彼女は当選した。

     

     ぶっちゃけ、ヤレる。

     もしかしたら、かくいう私もデート・レイプの加害者に回っていたのかもしれない。

     その女性の身を守ったのは、単に「カノジョ面されてもかなわんし」という私の利己心だった。

    スキマスイッチ

    • 2017.11.30 Thursday
    • 22:25

    「植物はスキマに生えるものである。

     コンクリートの割れ目、アスファルトのひび割れ、石垣の隙間など都市部のあちこちで

    目にするスキマには、しばしば植物がその生を謳歌している。

     彼らは孤独に悩んだり、住まいの狭さを嘆いたりなどはしていない。むしろ呑気に、

    自らの生活の糧であるところの太陽の光を憂いなく浴び、この世の自由を満喫している

    ところだ。隣に邪魔者が来る心配がないこと、これは、光を他の植物に先取りされ、陰に

    回ってしまわないよう、常に競争を強いられている植物にとって、なによりの恩恵である。

    隣の植物と背比べをし続けなくて済む好運、自分のペースで成長していればよい

    スキマという環境こそは、植物にとってじつに快適な空間なのだ」。

     

     街歩きのよくある光景。影の覆った過密状態の住宅地、例えば道端のわずかな割れ目に

    エノコログサが茂る。地域の無関心の象徴のようで、どこか荒涼とした心持になる。

     ところが、そんな植物をクローズ・アップしてみれば、華やかな写真集ができあがる、

    もちろんリアルの佇まいが本書ほどにカラフルなことは稀だろうけれども。

     そんな視点の転換を促すだろうテキスト。

     そしてそれは単に審美眼の問題に限らない。

    「ときとしてそこは、生態系の重要な一部となっている。……スキマは人の目にもつかず、

    管理対象もなっていない。その利点に気づいた個体群が、街中で新しく繁殖した結果が、

    今、都心部などで見られる蝶たちなのではないかと思う。スキマの利点を活かして暮らす

    スミレ類、それを食べて育つヒョウモンチョウの幼虫。成虫はあたりのスキマや花壇などの

    花の蜜を吸って飛び回り、結実を助ける。また幼虫も成虫も、シジュウカラなどの小鳥に

    とって大事な、雛の餌だ。小鳥たちが都心部でもさえずるのは、彼らがいてこそのことで

    ある。……既製品の植木が整然と並び、大きさも形もそろった草が植え込まれているだけの、

    虫も鳥もいない『緑の空間』は寒々しい。それを、蝶が舞い、小鳥がさえずる親しみ深い

    空間に変えるのは、スキマの大事な役割だ。スキマは、街中の生物多様性を支える

    生態系の重要要素なのである」。

     確かに。デヴェロッパーの手によって整然と統一されたニュータウンのポスターは

    焼け野原と紙一重、時として管理社会のディストピアに似るのかもしれない。

     そう思いつつ、今日も私は祖父母宅の雑草むしりをやめられない、キリなきことを知りつつも。

    フランケンシュタインの誘惑

    • 2017.11.30 Thursday
    • 22:20
    評価:
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    「本書では、『妖怪手品』を『幽霊出現などの怪異現象を、種や仕掛けによって人為的に

    作り出す娯楽』の意味で使おうと思う。……江戸期の伝授本、とりわけ天狗やろくろ首などの

    おばけを出すという遊びにびっくりしたのが、そもそものはじまりだった。当時の私は、

    歌舞伎の怪談物を研究するため、昔の資料を眺める日々を送っていた。江戸時代の

    歌舞伎役者たちが怖い幽霊や化け猫を演じていたのが面白くて、彼らが使ったであろう

    仕掛けについて調べていたのである。だが、手品それ自体に注目したことはなかった。

    そんな折、……共同研究会に誘っていただき、右のような次第で、『おばけを出す手品』に

    ついて考えてみようかと思い付いたのである」。

     

     A.C.クラークに言わせれば、「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」。

    「妖怪手品」といえばいかがわしい響きを持つが、フィクションの全き虚構を別にすれば、

    そこには常に種も仕掛けも横たわる。本書が取り上げるのは、その時代なりに「十分に

    発達した科学技術」の実践としての「妖怪手品」。当時の科学像をあぶり出すための

    代償として、盛大なるネタばらしの様相を呈してしまうのは止むを得ない。

     例えば18世紀の指南書『放下筌』において「庭前に化粧者を集め五色の雲を発さしむる術」

    なる芸が紹介される。「庭にあらかじめ鬼や狐、天狗などをこしらえておき、雨戸に装着した

    『五色めがね』から覗かせる。すると、作り物ははるか上の彼方に見え、その四方は五色で

    はなはだ奇怪だという」。もちろんトリックの鍵を握るのはこの「五色めがね」、筆者である

    平瀬輔世の説明によれば、「硝子なりとも水晶なりとも三角にすれバ一切五色に見ゆるなり。

    其理の根元ハ天の虹を考てつくりたる物也。日の出に中天にあめあれば西に虹となり

    日の入に中天に雨あれば東に虹見ゆる。中天に日あり東西に雨ありて虹出来ることなし。

    これ即水気斜めに光りをとをす故に、五色の虹となる この理を以て五色眼鏡を作れり」。

     どう読んでも、光のプリズムの話をしている。

     そもそも、本邦における手品本の端緒、『神仙戯術』からして、「生活実用情報のなかに

    手品の種明かしを含めたもの」だった。

     歌舞伎や落語といった当時の大衆芸能も、しばしば「妖怪手品」を組み入れることで

    人気を博した。今日のエンタメがCGや音響で観客の感嘆を誘うのと異なる点は特にない。

     

    「妖怪手品」なる響きにオカルトの匂いを嗅ぎ取ってはみたが、中身はなかなかどうして

    見事に江戸・明治期の知の姿を映し出す。鎖国期に独自の方向性で磨き上げた奇術は

    外国人を驚かせ、そして反対に、舶来の手法も日本人の度肝を抜いた。

     娯楽と密着した科学史の1ページと称して、何ら恥じるところのないテキスト。

    「ひとりでできないもん!」

    • 2017.11.28 Tuesday
    • 23:33

    「自らはゴミを拾えないけれど、子どもたちの手助けを引き出しながらゴミを拾い集めて

    しまう〈ゴミ箱ロボット〉、人の目を気にしながらたどたどしく話す〈トーキング・アリー〉、

    一緒に手をつないで並んで歩くだけの〈マコのて〉、コンコンというノック音だけで意志

    疎通を図ろうとする〈コーヒーポット〉など、いずれもなにかすぐに役に立つようなものでは

    ない。けれども、これらの〈弱いロボット〉たちは、いまでは、コミュニケーションということを

    考えるうえで、なくてはならない大切な〈思考の道具〉となっている。

     本書では、こうした〈弱いロボット〉たちと関わるなかで、折にふれて考えてきたことを

    紹介してみたい。〈弱さ〉をちからに変えるとはどういうことなのか。なぜ〈ロボット〉の

    〈弱さ〉について議論するのか。テーマの一部として、『コミュニケーション』や『関係性』と

    いうこともあるけれど、なにか一方的に『コミュニケーションとは……』ということを論じる

    ことは避けたい。むしろロボットたちと『ああでもない、こうでもない』と考えるなかで、例の

    こんな感じということを一緒に共有できたらと思う」。

     

    「『人らしさ』や『コミュニケーションとはどのようなものか』を探るうえで、あえてロボットを作り

    ながら考えてみる」。

     これが本書の一貫したアプローチ。ゆえに、ここで展開されるのは、工学最前線どうこうと

    いう前に、ロボットを媒介とした人間についての試論。

     現代、既に「『テキストからの音声合成』の技術を利用すれば、テキストを入力するだけで、

    流暢な音声に変換してくれる」。この機能を搭載したロボットを子どもたちの輪の中に入れる。

    最初は喋る物珍しさが手伝って歓喜の声が生まれるが、途中からどうにも怪しくなっていく。

    「それはとても生きた意味をともなっているようには思えない」のだ。

    「生きた意味」など持っているはずもなかった。「アリガトウ!」や「アイシテル!」といった

    「メッセージやその意味は自己完結して」しまっているのだから。

     対してコミュニケーションの場面においては、「その発話の意味や価値は必ずしも完結した

    ものではない。そこで伝えたいことも漠然としている。それでも、なにげなく言葉を繰りだす

    なかで、その意味や役割がおぼろげに見えてくるのだ」。

     欠けていたのはこの「弱さ」だった。

     

     たまたまここ数日、五代目古今亭志ん生をかけていた。

     息子のように滑らかで粋な語り口があるでもない。演じ分ける技術に秀でているでもない。

    ただし、そこには「弱さ」がある。あるいはこうも言い換えられるのかもしれない、そもそも

    出来上がっているはずの筋立て、構成をあえて瞬間に紡ぎ上げていくライブ感、とでも。

    その日当人に起きた出来事や場の空気が期せずして混ざり込んでしまうことで絶対無二の

    噺が時に生まれた、たぶん。

    「誰でもなく、自分に話しかけてもらっている、そういう志向性を感じるにつけ、なにか

    応答せずにはいられない、そこに思わず応答責任を感じてしまうのである」。

     まさしく。

     BGMのはずが、聞き流せない。

     志ん生は〈トーキング・アリー〉だった。

    やすらぎの郷

    • 2017.11.28 Tuesday
    • 23:30

    「限られた生を、どう全うするか。死ぬときぐらい好きにさせてくれる環境整備には、どんな

    生き方をし、どんな最期を迎えたいのかという本人の意思があることが大前提となる。

    私たち一人ひとりがどう生き、どう逝きたいかを考えることが求められるようになっている。

     同様に、お葬式やお墓について考えておくことも大切だ。自分のことは自分ではできない

    以上、誰かの手にゆだねるしかないからだ。この本では、家族や血縁ではない新たな

    共同性の取り組みなどを紹介し、誰に死後を託すのかという問題について考えていきたい」。

     

     とあるシンクタンクが導き出した衝撃の推計、「2035年の東京では、世帯主が65歳以上の

    世帯のうち、44.0%がひとり暮らしとなる」。

     家族、親類に死後を託すことは必ずしもできない、ということで当然にまずクローズアップ

    されるのは、公の制度設計。

     ただし、本書の中核はある面では発想の転換、つまり〈ひとり死〉時代に〈ひとり死〉を

    せずとも最期を迎えられるような、「共同性の取り組み」。

     

     逝き方の問題はつまり、生き方の問題。

     現状既に、「6人に1人のひとり暮らし男性高齢者は、2週間に一度も、誰からも電話が

    かかってこず、自分からもせず、自宅を訪れる人や外で会う友人もなく、近所の人と

    あいさつをかわすこともない」。独居高齢者を対象とした筆者の調査によれば、「お茶や

    食事をいっしょに楽しむ友人がいると回答した人は、男性で40.8%しかおらず、そもそも

    同性の友人がいない人は33.6%もいることが明らかになった」。

     これでは弔いも何もなく、公衆衛生の他に問われるべきものなどもはや持てない。

    「住み慣れた地域で、みんなが安心して生活するには、住民で助け合える共助の精神が

    土台にあることが前提だが、血縁、地縁に限らず、人間関係は一朝一夕にはできない。

    地域の人たちとのお互いさまネットワークを作るため、さまざまな取り組みをはじめる

    地域も出てきている」。

     例えば「隣人祭り」なるイベント。発祥の地はフランス、きっかけは同じアパートに住む

    独居老人の遺体が遅れて発見されたこと。気楽に酒や茶を持ち寄るような関係を築ければ

    こうした悲劇を未然に防げる。参加も退出も自由で、「緩やかなつながり」を保障する。

     あるいは共同墓地の契約者同士が、「死後の共同性」を求めて集まることで、生前における

    「緩やかなつながり」を図る。住人の多くが去った集落でも、共同の納骨堂を設けて「血縁を

    超えてみんなでお墓を管理していけば、無縁化する可能性は低くなる」。

     

    「社会がめざすべきは、孤独死や孤立死への不安をむやみにかきたてることではない。どんな

    人も死に方は選べないが、できるだけ早く異変に気づいてもらえる体制を整えることはできる。

    万が一のセーフティネットは、制度や仕組みがあっても、人と人とのつながりがなければ作用

    しない。……自主的な『縁づくり』活動を通じて醸成される関係性のなかで、生きている喜びを

    実感できれば、結果的に、誰からも存在を気にされない果ての孤立死は減少するだろうし、

    悲しむ人が誰もいない死は減るのではないだろうか。死ぬ瞬間や死後の無縁が問題なのでは

    なく、生きているあいだの無縁を防止しなければ、みんなが安心して死んでいける社会は

    実現しないのではないかと私は思う」。

     この本が提起する問題は一貫して生き方の問題に他ならない。

     トップダウンが断絶を推奨する時代に、ボトムアップで共助を打ち立てる。

    「みんな」なき時代に「みんな」を再構築するための気づきを〈ひとり死〉は促す。