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- 2020.05.10 Sunday
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「もし、あなただけが、誰も知らないミツバチの秘密に気づくことができたとしたら、と
想像してみてください。それは、ミツバチが何十万年もの間、人知れずおこなってきた
ことで、今も世界中のミツバチがそれをしているのに、誰もそれを知らないのです。
こんな興奮することはないでしょう。/本当のところ、その興奮はそれを見つけた
本人しか味わうことがきません(原文ママ)。しかし、できるだけそれを共有できるように、
この本では努力をしてみたいと思います。……この本のタイトルは、研究を旅に
なぞらえたものです。私たちは、ミツバチの生きる世界のことをよく理解していません。
しかし、研究を進めることで、少しずつそこに近づいていくことはできるでしょう。そして、
私がこのタイトルをつけたのは、それとはまたちがった意味からも、私がおこなってきた
研究が、まさに旅のように思ったからでもあります。……私も研究を始めた頃は、自分が
何をしたいのか、どこを、めざそうとしているのかが、よくわかっていませんでした、
しかし、その時々でできることを試してみるうちに、だんだんと目的地が定まり、今は
それに向かっているような気がしています。そのあたりが旅のイメージと重なったために、
このようなタイトルにしました」。
・仲間を識別するための認証システムを導入している。
・共同住居に死者が出ればその亡骸を埋葬する。
・王位継承をめぐって他の候補の謀殺を図る。
・ボディ・ランゲージを用いて意思疎通する、そしてしばしば行き違いが生じる。
これらはいずれもミツバチの世界の話。
・移動に際しては燃費に細心の注意を払う。
この点をめぐる精密さに至っては、あるいはヒトをも凌駕する。
そしてこのテキストは同時に、筆者個人の「旅」を綴ったものでもある。
往々にして、「ある意味では何の役にも立たない」基礎研究系、動物学者といえば、
幼少期の原体験そのままに育った純粋培養オタクの幸運な着地点を想像させる。
しかしこと筆者の場合、そうした像とはかなり毛色を異にする。
強力な志望動機があって大学に進んだわけでもない。ミツバチに辿り着いた経緯も
漠然としたもの。「良いバイト」と薦められて青年海外協力隊でフィリピンにも出向いた。
ミツバチにポストの空きがなくて、バッタや甲虫の研究に従事したこともある。.
その履歴は、“It's all about the journey, not the destination”、そんな英語のことわざを
想起させずにはいない。目的地を効率よく結ぶ(travel)、名跡をつまんで回る(tour)、
それだけが旅ではない。あてどなくさまよった末、なぜか辿り着いている場所がある、
現代教育論の徒花として、そんな「旅」があっていい。
「肥満や2型糖尿病、痛風、高血圧、乳がん、食物アレルギー、ニキビ、近視などの
辛い症状に悩まされている人々が世界中で増えている。『文明病』と呼ばれるこれらの
症状がここ数十年から数百年間に大きく広まったのは、年々増加する世界のより豊かな
国へと移り住む人々が、新たな土地の習慣や食生活に適応しようとすると、しばしば
病気を発症しやすくなる傾向があるせいだ。……本書『食と健康の一億年史』のおもな
主張は、現代に数多くの健康の問題が浮上してきたのは、祖先が守ってきた食習慣や
ライフスタイルを変えたことや環境の変化が原因ではないか、ということだ。本書では、
我々人類の祖先がどのように食べ、どのように暮らしてきたかを明らかにし、重大な慢性
病の発症を抑え、あるいは遅らせるために、どのように祖先の習慣のいいとこ取りをし、
日々の暮らしに取り入れるべきかについて、具体的な助言を行う」。
筆者はベトナムにルーツを持つ、カナディアンの人類学者。
このテキストでは、日本を含め世界各地を旅しては、古き食習慣の痕跡を探る。
そんな紀行文の枠に留まっていれば、香り高い随筆になっていたかもしれない。
しかし本書が達成しえたことといえば、控えめに言って使い古されたスローフード、
スローライフ論、有り体に言って純朴をもってよしとなす反知性主義の典型。
そのことは以下のようなまとめのフレーズに典型的に現れる。
「主要な栄養学者のほとんどが、脂肪やコレステロール、および/または塩分を過度に
含むことの多い伝統食には懐疑的だ。しかし、何を食べ、何を避けるべきかとくよくよ
考えるよりも、一番確実なのは伝統食を食べることだ。伝統食は何世紀もかけて
形作られてきたもので、健康によい食物の組み合わせや美味しく感じられる食材の
取り合わせが考慮されていて無理なく続けられる」。
この主張の無根拠性は、実際にそれらの多くが駆逐されたスーパーマーケットの棚を
見れば一目瞭然だろう。さまざまな面において「続」かないから「続」いていないのだ、
奇しくもそれは産業社会のサステナビリティの欠如と対をなすように。
この手のテキストの例に漏れず、循環農法の実践者を訪ねる。なるほど、それは個人の
生存戦略としては有効なのかもしれない。しかし、地球上の70億人を養うには足りない。
「座るのは最長でも1日3時間にすることだ」、果たしてそれを可能にしてくれる職種が
情報化社会にいくつあるだろう。
そうした経済合理性こそが歪みを生んでいる、との批判に傾聴すべき点は当然ある。
さりとて本書からその改善策が垣間見えるとは思えない。
そもそも草食などヒトに馴染まないとひたすらに肉を薦める専門家からヴェジタリアン、
ヴィーガンまで、食事における適切なバランスとは何か、本書はそんなことを尋ねて回る
旅でもある。自然と人為のバランスを見つめる、そんな旅でもある。程よい不潔は人体の
免疫力を引き出す、そんなバランスが模索される瞬間も訪れる。
そして本書を包括するテーマは、歴史を英知の蓄積と見るか、誤謬の蓄積と見るか、
そんなバランスを探ることにある。
世界中の遍く文明において飲酒の習慣が見られるのは、生水の解毒、殺菌方法として
各種コストの障壁が低かったから。ただし、他の手段が開発された現代においてなおも
弊害だらけのアルコールを続けることは陋習という以上のいかなる意義をも持たない。
雪に閉ざされる長野は、各種ビタミンやタンパク質の供給源として久しく愛好されてきた
漬物や味噌に含まれる過剰な塩分摂取を控えることで、脳や血管系の疾病リスクを緩和し
短命県との汚名を返上、転じて今や日本屈指の長寿県と化した。
試行錯誤のデータバンクとしての伝統に学ぶべき点は現代においてなおあるのだろう。
しかし、実践知を重んじるあまりに理論知を軽視しているとしか映らない筆者の態度は、
本末転倒と述べるべきか、思考停止という以外の何物でもない。
自身の過去作、『理性の限界』へのセルフ・オマージュだろう、今回も例によって
対話篇の形式で進められる。
本書は、「人類が『論理的・科学的・倫理的』に築いてきた成果を『学=反オカルト』と
すれば、その対極に位置する『非論理・反科学・無責任』な妄信を『欺瞞=オカルト』と
みなすというスタンスに拠っている。……本書の目的は、一般に『学』を志す読者、
とくに大学生諸君を対象として、上記の8つの『オカルト傾向』[騙される、妄信する、
不正を行う、自己欺瞞に陥る、嘘をつく、因習に拘る、運に任せる、迷信に縛られる]に
対してどのように対処すべきか、判断するためのヒントを提示することにある」。
そもそも本書は『週刊新潮』連載コラムを土台にしている。
そうした時事性を意識してなのか、「オカルト」サンプルのうちの少なからぬ部分は
STAP騒動の顛末に当てられている。
ないものをあるとまくし立て、ただしその主張者による証明は置き去りにされたまま、
ないものをめぐり大のおとなが翻弄される、なるほど現象を見れば、「オカルト」の定義を
満たしてはいそうだ。
科学、教育政策に関わる話題なだけに、論じるに値するものがないとは思わない。
ただしこのテーマ、少なくとも私には絶望的なまでにつまらない。「欺瞞」を「欺瞞」として
あえて乗っかる、ポジション・トーク・バラエティとしての「オカルト」に爆笑したい私には、
この事件のいちいちが退屈で、そしてしばしば不快に過ぎる。
この差異の理由について考えて辿り着く。「学」の対義語としての「オカルト」ではなく、
むしろ同義語としての「オカルト」こそを私は求めているのだ、と。
自然科学が実験や数学を素材に仮説を立てていくように、法学が六法や判例を素材に
法理を説いていくように、例えばキリスト教神学は聖書を素材に神の存在証明を図る。
最低限の道具立てから論理を組む、その限りにおいて、「学」としてみな等しい。
スピリチュアリズムにしても、信奉者は反駁者と同様、論理をもって他者の説得にあたる、
たとえ怪奇とされる現象を語るための諸前提が完全に壊れてしまっているとしても。
自称・霊媒師とて論より証拠の具体性をもって他者へと挑む、たとえその手口の内実が
しょうもないマジックやマインド・リーディングの類に過ぎないものだとしても。
「ありまぁす」を唱え続ければ無理が通る、そんな態度とは対照的な「学」がそこにある。
小保方晴子のどこに、庇護者の瀬戸内寂聴のどこに、果たしてそんな「学」があるだろう。
「漢字には、本来、正しい漢字と間違った漢字がある。そういう漢字を巡る思い込みが
世上に広まっている。そしてその『正しい漢字』を選び、使うことで試験でよい点数を
得られる。そういう風潮が世を覆っている。正しい漢字とは何か? 『本来』という語が
持ち出されることが多いが、それは多くの場合、字の歴史上の任意の一点にすぎない。
また、それが古代である場合には、たいてい現代にそのままの形では当てはめがたい
ものとなる。そしてそれは、調査を通じて突き詰めていけばどこかで誰かが決めたものに
すぎないことがうかがえる。それは学者かもしれないし、政府かもしれない、いや名もない
市井の誰かかもしれない。そういうあやふやな出所を持つ漢字にとっての正しさは、
ほとんどの場合、それぞれの時空において相対的なものにすぎない」。
例えば「筰」なる漢字がある。そもそも中国では、「舟を引くときなどに用いる竹製の
網を指すくらいの意味しかもたない、用途の狭い字だった」。日本においても、過去に
広く普及していたわけでもなく、現代に至っては昭和の名作曲家、山田耕「筰」の他に
ほぼ用例を見ないだろう。そもそも彼の旧名は山田耕作、竹かんむりはなかった。
『康煕字典』にあたり自ら掘り出したのだ、という。そんなレアな字がPCやスマホで
「やまだこうさく」から一発変換できるのも、あるいはディスプレイに表示されるのも、
もとをただせば、JIS漢字に登録されているから。
もっとも、その認定は「赤とんぼ」や「待ちぼうけ」の名声に由来するものではない。
「椪」「鮴」「嫐」……「筰」に限らず、これらの漢字がJISに組み入れられているのには、
実はある共通のソースがあった。
洋の東西を問わず、とかく標準語的なものの導入には、上意下達を効率的に
推し進めるための官僚機構的な便益が横たわる。
漢字におけるいわゆる誤字なる発想は、その最たるものなのかもしれない。
果たして古代中国の難関試験、科挙においてもその「正しさ」は突き詰められる。
とはいえ逆説的にも、その実施の歴史は「正しさ」の揺らぎを反映せずにはいない。
些末なチェックに目を光らせる光景はなるほど不毛かもしれないが、本書を片手に
生徒が漢字テストの是非を教員にねじ込む、そんな光景もまた不毛。
そんなエネルギーがあるのなら、自らの知性を伸ばすことに仕向けた方がいい。
気になったら調べてみればいい。漢字でそれを実践すると本書ができる。
カタギとはそもそもにおいてなじまない。だからこそ、神事を神事たらしめる。
神事にかこつけた異形のカーニヴァルとしての相撲が法令遵守を唱えれば、
制度は早晩瓦解する。
いかがわしさを嫌うなら、シャットダウンしてしまう他ない。
ただしそのとき、巨体を持て余した異形はどこへ向かえばいいのだろうか。
「縁日といえば、アセチレンガスの臭いとともに〈金魚すくい〉や〈綿あめ〉の
露店が思い浮かぶ、三尺、六尺単位の屋台に、安もののネタを並べ、独特の口上で
見物客を華やいだ気分に駆り立てる街頭商人たち。テキヤ、香具師とも呼ばれる。
彼らは固定した店舗をもたず祭り、行事、縁日を求めて動きまわっている。
市は、平日と高市の二つに大別される。平日は毎日定まった日に商い、高市は
祭礼などの特殊な市、主に神社仏閣を利用して商う。『俺たちは純然たる商人だ』
というのが彼らの誇らしげに言うセリフである」。
「俺たちは純然たる商人だ」なんてことばをまさか、そこらの八百屋やコンビニ、
あるいは商社マンらが口にすることはない。
総モノクロ写真の本書がとらえるのは、1960年代のもっぱら「高市」の風景。
刺青、角刈り、サングラス……任侠映画を地で行く面構えが並ぶ。
そんな中にあってひときわ印象的なのが宗教者の顔。袈裟を身にまとうことで
辛うじてその身元が明かされる。それがなければ――香具師と同じ。
棲み分けて、時に交わる。
「高市」が示すこの混淆にこそ、祭りの祭りたる所以がある、と私は思う。
「ケ」があればこそ、「ハレ」は「ハレ」として機能する。
私の暮らす地域でも毎夏、祭りが催される。主催は自治会、屋台の担い手も住人、
どうかしている荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」など、盆踊りのノイズを除けば、
地域民の懇親会の域は出るものは何もない。あちらとこちらの境界を束の間侵犯する
赦しの瞬間、いけなさを反転させる、そんな「ハレ」のカタルシスなど、決してない。
「俺たちは純然たる商人だ」。
そもそも世界はいかがわしい。その匂いを排すれば、ただ経済の論理だけが残る。