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- 2020.05.10 Sunday
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評価:
ジュディ・ダットン 文藝春秋 ¥ 886 (2014-10-10) |
「インテルISEF2009の会場で出会った若者たちの姿に心をかきたてられ、わたしは
はじめから終わりまで会場にとどまっていた。生徒たちが研究発表をし、審査員からの
質問に当意即妙に答え、授賞式ではサイエンス・フェアにかけた夢が実現するか、
打ち砕かれて燃え尽きてしまうか、固唾を飲んでいるさまを見守った。わたしはサイエンス・
フェアの1502人の参加者のなかから、特に心を動かされた6人と会い、ひとり1章を割いて
それぞれの歩みを追った。残りの5章は過去の受章者について記したが、そのどれもが
サイエンス・フェア関係者のあいだで伝説となっているものである。こうした若者たちの
功績が噂どおりのものであるか確かめたいという好奇心に駆られ、彼らの家や研究室を
めぐる旅に出た。わたしは目にしたものに驚嘆した」。
ある参加者は2歳にしてサンタに延長コードをおねだりし、8歳でロボットを自作した。
またある者は高校生にしてナノ・テクノロジーの特許を複数保持、大学教授との共同で
既に起業も果たしていた。
しかし、本書はそんな早熟のまばゆい天賦の才にばかり焦点を当てるものではない。
必要は発明の母。トレーラー・ハウスに暮らす先住民の少年は貧しい家族のため、
病弱な妹のため、太陽光と中古車のラジエーターを用いた給湯暖房システムを開発した。
ある少女は突如ハンセン病に襲われた。今となってはこの病は投薬で完治も可能で、
接触による感染力も非常に弱いことが明らかになっているが、まださほど周知されていない。
彼女は友人とともに自身のこの病を研究対象に設定した。
ただし、この本は「理系の子」の物語であると同時に、あるいはそれ以上に、彼らを取り巻く
周囲の大人たちの物語でもある。
ある少年は祖母から贈られた一冊の本を契機に核エネルギーに魅せられ、14歳にして
核融合炉を完成させた。とはいえまさか、好奇心だけを駆動力に達成できたはずがない。
ネット上で交流を持った大学院生メンターがいて、機器を提供する「最高級掃除人」がいて、
何よりもそれを見守り、高度な教育環境を与えた両親がいた。
ある出展者は塀の向こうからやってきた。「問題を引き起こすことにかけては、ここにいる
生徒たちは天才」、そのエネルギーを科学に方向づけした教員がいた。いつしか授業中の
罵倒語の使用も消えた。放課後の研究に自主的に取り組む生徒も出てきた。とはいえ、
彼らには固有の面倒があった。武器になる恐れがある、と授業の度にシャープペンシルは
配布、回収される。展示パネルを作るための刃物なんて論外で、作業は教員が助けた。
そんな末、フェアの研究を認められて、出所後の奨学金を与えられた生徒さえ現れる。
本書をめくればいい話がいくらでも転がっている、怪しいほどに。
そして、それを単に読み物の枠にとどめていいものなのだろうか。
学校教育がどうこうなんて大上段から嘆いてみせる前に、近くにもし子どもがいたら、
例えばこう囁いてあげる。
「やりたいことをやるというのはどう?」
それだけで、もしかしたらあなたもこの美談の主になれるかもしれない。
「今日、その英国の議院内閣制は、大きな挑戦にさらされている。議院内閣制を取り巻く
英国の国家構造(constitution)にも重大な変化が生じている。一連の国家構造改革
(constitutional reform)である。はたしてこれらの改革は、英国の議院内閣制を本質的に
異質の何かに変えようとしているのであろうか、それともそのバージョン・アップを促す
改革なのであろうか。本書は、議院内閣制の象徴である英国政治の根源を探究し、
さらにそこに生じている変化を解き明かすことを目的としている」。
イギリスの議会史をひもとくこの試みの中で、いきなり驚愕の表現に出会うこととなる。
トマス・ウォルポール、「後に初代首相として知られることになる人物」。
日本の伊藤博文を指して、こんな遠回しな言い方はまさかしない。合衆国の初代大統領
G.ワシントンにしても同じだろう。
そもそも「『首相(prime minister)』という言葉が使われだした頃、この言葉は、強大に
なり過ぎた首席の大臣を批判するために用いられていた」。あくまで政府の役職名として
定着するのは、19世紀を待つのだという。さらに、有権者の投票による下院・庶民院に
籍を置く議員でなければ、君主は「首相」に指名できない、このシステムへの移行には
これまた世紀をまたがねばならない。
そして本書の中心テーマは、「強大になり過ぎた」議会、内閣が専横に陥る危険を
いかに食い止めるか、そんな「国家構造改革」の軌跡。
そもそもの最大の抑止力は、小選挙区制下で二大政党が拮抗することによる緊張、
しかし、いずれかが弱体化し、政党が民心と乖離すれば、その機能は不全に陥る。
ノブレス・オブリージュや紳士という抽象的な道徳心への期待も惨めに裏切られた。
ではどうするのか? 鍵は第4代アメリカ大統領、ジェームズ・マディソンにあった。
三権分立、小学校で習うだろう日本の権力機構の基本である。
しかし英国はあくまで「議会主権」の国である。そもそも司法のトップにあたる大法官は、
閣僚と貴族院議長を兼ねる役職であった。日本における違憲立法審査のような制度は
想定すらせず、「議会の制定法を拘束できる、より高次(上位)の『法典化された憲法』」と
いう概念を持たず、あくまで「司法の役割は、議会の制定した法律の是非を判断する
ことではなく、法律を解釈することだった」。
そんな英国も外圧にさらされて、やがて変化を余儀なくされる。1951年に批准した
欧州人権条約である。とはいえ、「英国は長く欧州人権条約を国内法化してこなかった。
議会が国内法化しなければ、国内の裁判所で欧州人権条約の内容を適用することは
できなかった」。その結果、「英国の批准する欧州人権条約によって諸権利を有すると
認められているにもかかわらず、英国内の裁判所でその諸権利が擁護されず、国外の
欧州人権裁判所に頼らなければならないとすることには大きな矛盾があった」。
かくしてついに議会をも縛る「より高次の法」として人権法が制定される。
1998年のことである。
ただし、本書においていかにも惜しいのは、他国との制度比較に乏しいがために、
制度運用の実態がかえって見えづらい点にある。「残念ながら、英国の議院内閣制は
効率的に決定を下すことには比較的成功はしてきたが、良好なパフォーマンス(結果)を
出すことに成功してきたわけではない」と他の研究を引きつつ論じるのだが、この失敗が
果たして英国式の議院内閣制に固有のものなのか、という理解はやはり、他の制度下で
ならば回避可能だった、という論証、ケース・スタディを伴わなければ成り立たない。
R.レーガンに比肩する世紀のクズ、M.サッチャーの尻拭いとしての「国家構造改革」に
しても、他国の設計を当然参照しているに違いない(その理解の妥当性はともかく)。
奇しくも保守党、労働党という二大政党の比較がかえって双方の制度理解を促して
いるように、英国の議院内閣制にも同様の仕方が適用できなかったのだろうか。
「きっかけは1989年夏、いつものように『ワシントン・ポスト』紙から受けた一本の仕事だった。
マーズインコーポレイテッドの特集記事を書いてほしい、特にライバルのハーシー社に全米
トップの座を奪われた同社の反応を詳しく、という依頼だった。首都ワシントンDCにほど近い
巨大チョコレートメーカー、マーズ社について、当時の私は何も知らなかった。マーズ家が
所有するファミリービジネスであることも。極端な秘密主義も。……しかしこれは、アメリカの
菓子会社探訪の旅の始まりに過ぎなかった。マーズの取材中、私は不可解で興味深い
話をひとつ知った。マーズのベストセラーM&Mチョコレートは、なんとマーズと宿敵
ハーシーとの共同事業で開発されたものらしい。マーズが教えてくれたのは、M&Mの
ふたつの『M』のうちのひとつは、長年ハーシー社長を務めたウィリアム・ムリーの息子、
R.ブルース・ムリーの『M』ということだけだった。マーズとハーシー、両者の絡まりあった
関係のどこかに真の物語が存在するはずだ。アメリカの並び立つ巨大チョコレート帝国に
まつわる逸話は、一冊の本に値するに違いない。……取材中の私を惹きつけたのは、
ビジネス戦略でも革新的な商品開発でも隠された秘密でもない。おなじみのチョコレートの
裏に隠れていたとてつもない人々の話である。ミルトン・ハーシーはフォレスト・マーズ・
シニアに劣らず魅力的な人物だった。ふたりを駆り立てたのは狂想ともいえる夢であり、
フォレストは帝国を、ミルトンはユートピアを夢みたのだ。ミルトン・ハーシーが目指したのは
単なる一企業ではなく、チョコレート工場を核としたパラダイスだった。そして巨万の富を
手にすると、彼は直ちに手放したのだ。マーズ一族が世界有数の富豪であることを知る人は
少ない。しかしハーシー社の利益で世界一豊かな孤児院が運営されていることを知る人は、
さらにいっそう少ない」。
『チョコレートの帝国』と聞けば、たぶん少なからぬ人の頭を過ぎるのは、カカオをめぐる
例のプランテーションと搾取の話に違いない。ああ、またフェア・トレードなどを絡めた
道徳めいたお説教がはじまるのか、そんな誤解を招きかねない邦題こそが、この傑出した
テキストにまつわる第一の不幸に違いない。
第二にして最大の不幸は、みすず書房という良心的な出版社から邦訳が刊行されて
しまったことにある。教条主義か、せいぜいがチョコレートをめぐるお堅い文化史か、と
いう先入観で、残念ながら大多数にはその存在すらも認知されることがない。
はっきり言えば、本書は物語として胸ときめく、ビジネス書の類として読まれるべきような
テキストである。マーズとハーシーという巨人に範を取ったイノヴェーションの教科書として、
この本が書店のメインスペースに平積みされていないことにどこかもの寂しさすら覚える。
キャラクターの立った男たちの立身出世伝、それだけでも面白くならないはずがない。
何もかも好対照なライバルが市場で鎬を削り合う、少年マンガのセオリーを凝縮したような
展開に熱くならないはずがない。生き馬の目を抜くヒール・プロットを地で演じてみせて
くれるのだから、カタルシスも全開。度が過ぎたストイシズムは時に笑いにすら変わる。
ものを作る前にまず人を作る、そんな起業家の盛衰記が涙腺を刺激せずにいられようか。
成功体験が時流に適応する足かせになり、一度は堕ちた名門が覚醒する、斜陽の世界を
生きる者の活力剤としてこれ以上にアドレナリンしたたるアプローチが他にあるだろうか。
おまけに、ストーリー・マーケティングにお誂え向きのはずの逸話の数々が秘密主義の
企業方針ゆえ、ほぼ世に広まらぬまま今日に至った、と来ている。
つまり、あざといほどに売れる要件を完備している、それも俗情に媚びた結果ではなく、
未知の金脈を掘り当てたそのご褒美として。
足りないものはただひとつ、セールス実績だけだ。
原著の出版は1999年、しかし本書に色褪せたところは微塵もない。
ケース・スタディとして面白い、産業史として面白い、伝記として面白い。
このノン・フィクション、不遇だ。
ここに銀婚式を迎えた夫婦がいる。
二人が出会った街へと向かう道すがら、麗しい光景に車を止める。その傍らに墓がある。
「アシャーストは、とつぜん立ちあがった。この景色に見おぼえがある。公有地のこの場所を、
細長い小径を、背後の古い塀を、たしかに知っている。車で走っていたときは、物思いに
ふけってぼうっとしていたせいか、まったく気づかなかった。しかし今は、はっきりとわかる!
26年前のちょうど今ごろ、アシャーストはこの場所から800メートルほどのところにあった
農場を出てトーキーに向かい、それきりここには戻らなかった。彼はとつぜん胸の痛みを
おぼえた。過去のあの一場面が心によみがえってきたのだ。彼の手を逃れ、翼を
はためかせてどこかに飛び去ってしまった美しい歓喜の日々と、またたく間に色を変えて
終わりを迎えた、たとえようもなく甘かなあのひととき。深く埋もれてていたあの頃の記憶が、
今、鮮やかによみがえってきた」。
卒業旅行中のエリート青年が、ウェールズの田舎娘と恋に落ち、一度は契りを交わすも、
あっさりと心変わりして裏切る。
早い話がイギリス版『舞姫』、ただし主人公に何の葛藤もない。
何せこのアシャースト、「ぼくは、正しい人間であること自体が正しいから、正しく生きる
ことを信条としているんだ」なんてことを臆面もなく口走れる自己肯定の塊。はじめから
苦悩や屈託なんて代物を抱きようがない。多少はためらう素振りを見せたりもするが、
健忘症を疑わせるほどのポジティヴなマインドですぐに前を向いて歩き出す。
アメリカン・ヒーロー映画でさえ、主人公が正義の行使をめぐって延々と内省を繰り返す
この現代とは隔世の感はなはだしく、もはや何の感情論理をも共有しようがない。
後に残るものといえば、たぶん書いていて楽しくてたまらなかったんでしょうね、くらいの
感想しか湧き上がりようのない、ただひたすらにくどくどしい形容表現の数々。
何もかもがグロテスク。
今日日、こんな物語、もはや書けない、つまり読めない。
そんな作品が100年前にはそれなりに社会に受容されていた、という史料的な価値を
除いて、現代に本作が蘇るべき何の理由があるのか、まるで理解できない。
評価:
ジャンナ ・レヴィン 早川書房 ¥ 842 (2017-09-21) |
「宇宙のどこかで、二つのブラックホールが衝突する。どちらも恒星並みの質量を
もちながら、サイズは一つの都市ほどしかない。まさに黒い(光がまったく存在しない)
穴(空洞)である。重力で互いにつなぎ留められた二つのブラックホールは、最期を
迎えるまでの数秒間、両者が接近することになる点のまわりを何千回も周回して
時空をかき回し、やがて衝突して合体し、一つのブラックホールとなる。……合体により
生じる膨大なエネルギーは。純然たる重力現象という形で、時空の形状の波動として、
すなわち重力波として発散される。……十分そばにいれば、聴覚機構が反応して
振動するかもしれない。その場合、重力波を聞くことができる。暗黒の虚空の中で、
時空が鳴り響くのが聞こえるのだ(ブラックホールに命を奪われない限り)。重力波とは、
物質媒介なしで伝わる音のようなものである。ブラックホールどうしの衝突によって、
音が発生するのだ」。
とはいえ、「太陽10億個分の1兆倍を上回るエネルギー」によって発せられるこの「音」、
別にジェット機のごとき轟音を伴って彼方へと到達するわけではない。この重力波が
もたらすのは「地球3個分ほどの幅が原子核1個分だけ伸縮するに等しい」、他のスケールで
言い換えれば「地球1000億周分の距離を髪の毛1本の太さにも満たない幅だけ伸縮させる
変化」をもたらすに過ぎない。このプレイヤーに投じられた総額は10億ドルを超える。
本書では、そんなプロジェクトの裏側の人間活劇をあぶり出す。
「アイデアを出すことと実際に手を付けることは大違いですから。……称えられるべきは、
そして発表すべきは、そのアイデアを実現させた人たちですよ」。
宇宙物理学の最前線として部外者が往々にして想像しがちなのは、選りすぐりの俊英が
複雑怪奇な数学や理論を操って、途方もない「アイデア」を表していくその風景。
ただし、本書の中心をなすのはもっぱら「実際に手を付け」た人々、そのさまは、
典型的なものづくりのパイオニアたちのそれに限りなく似る。
ざっと2億ドルの予算獲得を目指して連邦議会に申請し、公聴会が開かれる。
「この極微の事象が起きるのは来月か、それとも来年か、あるいは30年後なのか、
私たちには分からないのです」。
見解を求められた権威によるこの証言は、計画の先行きに暗雲をもたらした。
起死回生を図るべく、民主党の有力議員を味方につける。彼にとって、巨額プロジェクトの
地元への誘致はいかにも魅力的だった。ところが用地選定が進むにつれ、別の州に白羽の
矢が立つ。時の政権を握る共和党の差し金だった。まさか議員が憤怒に震えぬはずがない。
こうして彼らは後ろ盾を失う。
当事者間の軋轢を孕まないビッグ・プランなどこの世にはない。
彼を前にしては他の学者はサリエリの座に甘んじる、そんな稀代のアマデウスはただし、
調整能力を欠いていた。彼は「自分の直感に頼り、客観的な分析には頼らないのです。
理路整然としたやり方をしようとしませんでしたし、できませんでした。……これらの短所は、
多数のメンバーが関与する組織的な研究プロジェクトを率いるのは著しい障害となります」。
そして事態はこじれにこじれて、彼は「プロジェクトの中核から追放された」。
本書を彩るのは、オタクの園を舞台とした、むしろ古典的な政治劇。ドン・キホーテの
哀愁さえも時に滲む。
とはいえもちろん、天文学、物理学の面白みを外すことはない。
何もかもがミステリー、胸高鳴らぬはずがない。