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    Seven Nation Army

    • 2018.03.30 Friday
    • 23:12
    評価:
    アンソニー サドラー,アレク スカラトス,スペンサー ストーン,ジェフリー E スターン
    早川書房
    ¥ 972
    (2018-02-09)

     息子がフランスの列車内でテロリストの凶行を阻止したニュースがテレビで持ち切りだ。

    浮き足立つ自分を抑えるために、普段通り母はネイルサロンへと出かける。ネイリストに

    自らその話題を振るも、相手はただ一言。

    「へえ、すごいわね」

     娘を学校へ迎えに行く。誰も息子の偉業を称賛してくれない。だから自ら切り出すも、

    「あら、ほんと? 週末の資金集めの会、あなた行く?」

     

     息子にフランス政府から勲章が与えられる。その式典に立ち会いたい、さりとて渡仏する

    費用のあてはない。母は自分をエリゼ宮へと導くパトロンの条件を列挙していく。「虚栄心が

    満たされるようなことをしたがっている人で、プライヴェート・ジェットを持っている人で、

    少しでも宣伝になることなら金に糸目をつけない人――もうほかにはありえなかった。

    ドナルド・トランプ!」

     

    「駅に着いたら、フランスの警察の事情聴取を受けることになるだろう。アンソニーは考える。

    フランスの新聞の取材もあるはずだ。頭の中の霧が晴れるにつれ、テロリストに遭遇したと

    いう事実が理解されはじめる。おれたちはこの手でテロを食い止めた。スペンサーとアレクは

    休暇中の米軍兵士で、そのことにも注目が集まるだろう。……その時点ではアンソニーには

    その後に起こることなど何ひとつ予測できなかった。自分たちがフランスだけでなく、

    アメリカでも一躍有名人になることも。《ピープル》誌の表紙を飾ることも。〈コロンビア・

    スポーツウェア〉社のCEOがプライヴェート・ジェットを一週間提供してくれ、そのジェット

    機でアメリカに帰国することも。その様子がヘリコプターで空撮されることも。大学の授業を

    受けるときに私服警官の警護を受けることも。テレビのトーク番組に出て、美しい新進女優の

    隣りに坐って司会者のジミー・ファロンと話をすることも。三人でアメリカ合衆国大統領から

    ホワイトハウスに招かれて、秘密の地下壕を見学することも」。

     

     パリには行かない方がいい、そんな助言を果たして幾度受けたことか。彼らの履歴を

    表すものとして描き出される軍隊の教練が列車内で生きてくる。学校に馴染めなかった

    三人組を唯一惹きつけたのが歴史の授業、史跡を回ることを欧州探訪の目的としていた

    アメリカ人の彼らが、ノルマンディーをなぞるようにフランスの危機を防ぐ。

     すべての記述が、すべての過去が、用意周到に彼らを英雄たらしめる道を指し示す。

     これがもしフィクションだとすれば、ただ作家の壮大なる資質に恐れおののく他ない。

     

    「アンソニーが経験した襲撃事件はアレクと異なっている。アレクが経験した襲撃事件は

    スペンサーと異なっている。彼らの時間の流れには、加速がかかったり、その一部が

    ほとんど止まっていたりする――その作用が三人とも異なる事件で始まり、異なる時点で

    終わっている」。

     それぞれがしばしばまるで異なる記憶を訴える(彼らの名誉のために付け加えれば、

    そのずれは互いが自身の手柄を主張する性質のものではない)。よくあることだと言う。

    「衝撃的な出来事を経験したあとで、当事者が防犯カメラに客観的に記録された映像を

    見ると、自分の記憶とのあまりのちがいにショックを受け、気が変になることさえある」。

    それはちょうど、歴史の相の眼差しから眺めるとき、今ここでわれわれがしている一切が

    まるで異なる現れ方をするのに限りなく似ている。

     

     事件から数か月後のある日、アンソニーのスマホにメールが次々舞い込む。

    「きみは今、どうしてパリを救ってないんだ?」

     間もなくテロが再び花の都を襲ったことを知る。犠牲者は百人を超えた。

    「自分に責任があるという考えをどうしても拭えなかった。これはおれたちのせいだ。そう

    思えてならなかった。おれたちがあいつのテロを阻止したから、やつらはそれを十倍にして

    報復したんだ。おれたちのしたことなどなんの意味もなかったとフランスの人々に知らしめる

    ために。……列車事件での自分がとてつもなく幸運だったことを思い、そのことに罪悪感を

    覚えた。彼とスペンサーとアレクが運命の邪魔をしたために、運命が猛然と仕返しを

    してきたのだ。テロリストたちは三人に報復するため、フランスにいる何百人もの罪もない

    人々を利用し、証明して見せたのだ。歴史の流れを止めることはできないと。その出来事が

    いつどの程度の規模で起きるかということは変えられても。

     おれたちがフランスの人々をこんな目にあわせたのだ」。

    人間の安全保障

    • 2018.03.30 Friday
    • 23:03

    「昨今、ベーシックインカムへの関心が高まっている一因は、現在の経済政策と社会政策の

    下で、持続不可能な規模の不平等と不正義が生まれているという認識にある。猛烈な

    グローバル化が進み、いわゆる『新自由主義』の経済が浸透し、テクノロジーの進化により

    労働市場が根本から様変わりするなかで、20世紀型の所得分配の仕組みは破綻して

    しまった。……本書の目的はあくまでも、読者にベーシックインカムの基礎知識を提供し、

    掘り下げた紹介をすることにある。ベーシックインカムとはどういうものか、この制度が

    必要な理由として挙げられてきた三つの側面、すなわち正義と自由と安全について論じ、

    あわせて経済面での意義にも触れる。また、さまざまな反対論も紹介する。とくに財源面での

    実現可能性の問題と、労働力供給への影響についても検討する。さらに、実際に制度を

    導入するうえでの実務的・政治的な課題も見ていく」。

     

     ベーシックインカム批判の典型に、「社会を破壊しかねない怠惰」を引き起こすだけ、と

    訴える説がある。しかし筆者はこれらの妄想を裏づける根拠など存在しない、と一蹴する。

    あくまで「ベーシックインカムは、人々が何もせずに怠惰に過ごすためのお金を配る制度では

    なく、『やりたいこと』と『できること』をする自由を与えるための制度なのだ。……

    心理的な安全を感じている人は仕事の量を減らすのではなく、増やす……心理的な安全を

    感じれば、人は協力的になり、仕事上のグループの生産性も上昇する可能性が高い。基礎的な

    安全が確保されると、自信が強まり、活力が増し、他人への信頼感が高まって、より多く、

    より質の高い仕事ができるようになるのだ」。

     インドでの社会実験例、「大人(とくに女性)の仕事量と労働が増えた。多くの受給者が副業

    (主に自分のビジネス)を始めたことが大きな理由だ。唯一、労働量が減ったのは、学齢期の

    子どもたちだった」。それだけではない。「医療費など不慮の支出に対応したりするために、

    しばしば急な借金をしなくてはならない。多くの場合はきわめて高い金利を支払う羽目になる」。

    この事態が回避される結果、債務リスクが減少するばかりか、「より戦略的な意思決定も可能に

    なった。以前より低い金利で金を借り、必要な農具や種子、肥料などを買」い求めるようになり、

    必然的に生産性が向上した。

     BIの恩恵は単に家計に留まらなかった。「ある村では、試験プロジェクトが始まった当時、

    若い女性は誰もがベールで顔を覆っていた。……しかし数カ月後、私が調査チームの同僚と

    一緒に村を訪れると、ベールをかぶっている女性は一人もいなかった。ある女性が理由を

    説明してくれた。以前は年長者のいうことを聞くしかなかったが、自分のお金が手に入るように

    なったので、自分の意思に従って行動できるようになったのだ」。

     

     もちろん、先進国において筆者が強調するような「労働labor」から「仕事work」への

    移行を果たせるほどのBI給付をしようとすれば、途方もない財源を要するだろう。

     とはいえ、筆者がBIを推奨する理由、言い換えれば、現行の各種社会保障制度を

    批判する理由について知るだけでも本書は参照に値する。

     例えば資力調査に基づく社会的扶助の場合、まず審査のコスト自体が馬鹿にならない。

    プライヴァシーも侵害される、ゆえに本当に必要としているはずの人が申請すらしない。

    そして何より「貧困の罠」が待っている。中途半端に職にありつけば、かえって実入りが

    少なくなる。それを避けるために就労を義務づけるのは、ブラック企業に餌を与えるだけ。

     現物給付やバウチャー制度の場合、まず極めて反現実的な仮定を前提に置いている。

    曰く、現金を渡したところで浪費を助長するだけ。しかし現実は全く逆の傾向を示す。

    「給付金は、子どものための食糧、医療、教育など、有意義な目的に用いられる場合が多い。

    ……違法薬物やアルコール、タバコへの支出は減る」。クーポンが想定しない生活必需品を

    入手できない、そんな問題は当然に起きてくる。システムコストは狂気を極める。「ある研究に

    よれば、……現物給付は、同程度の現金給付に比べて4倍近い行政コストがかかる」。

    「バウチャーは、使える店が決まっていたり、店側が受けつけた場合しか使えなかったりする。

    その結果、業者間の競争があまりはたらかず、バウチャーを受け付ける店は価格を引き上げ

    やすい。バウチャーは同額の現金に比べて、購入できる商品の量が少ないのだ」。だとすれば

    制度の拡張を図るほどに汚職や利権誘導が進むことは火を見るよりも明らかだ。

     

     BIのコストをどう捻出するか、なるほど問題には違いない。

     しかしそのことは、イギリスで「医療、警察、刑務所など、ホームレス一人に対して年間に

    推定26000ポンドが費やされている」点を決して擁護しない。直接給付にすれば、彼らが苦境を

    脱するのにかかるコストはそれよりもはるかに低い。それでいて、乗数理論に基づく循環効率も

    非常に高いパフォーマンスを期待できる。どこに差額をくわえ込むしか能のない豚どもを

    生かしておくべき理由があるというのか。

     BIが不労所得のバラマキであるという批判が正当であるならば、全く同じ理由に基づいて

    資本家(笑)が糾弾されることもなくのさばっていられるこの矛盾はどう説明されるのか。

     

     ベーシックインカムを叩く前に、自らの常識がいかに薄汚い臆見に過ぎないか、巷間広まる

    愚かしい言説で誰が得をするのか、を少しでも立ち止まって考えてみる。

     それだけで、「ユートピア」はほんの少し近づく。

    ディスカバー・ジャパン

    • 2018.03.25 Sunday
    • 21:53

    「本書は寅が旅したさまざまな町を辿ったシネマ紀行文集である。実際に行ってみると、

    撮影当時の風景がいまだに残っている町、もう消えてしまった町、小さな鉄道がまだ

    走っている町、廃線になってしまった町、とさまざまだったが、どこも、はじめてなのに

    前に来たことがあるように感じる懐しい町だった。

     瓦屋根の並ぶ町並み、鉄道の小駅、清流、田圃や麦畑、あるいは温泉。山田洋次

    監督はシリーズを何本も作ってゆくうちに、高度経済成長によって消えてゆく懐しい

    風景のなかを寅に旅させようとしたのではないかと思う。その意味では、『男はつらいよ』は、

    消えゆく日本の風景の記録映画でもある」。

     

      わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です――

     

     出発点の柴又からして「昔し町」だった。筆者に言わせれば、「柴又は決して下町では

    ない。本来の下町である日本橋あたりの人間に言わせれば、隅田川の向う、さらに荒川

    (放水路)の東など、市中から遠く離れた『近所田舎』である」。

     映画の初作は1969年、経済成長の真っ只中、そして後世から振り返れば終焉期、

    「急激な都市改造で変わった東京のなかで、この町だけは昔の町並みを残している」。

     そんな辺境を郷里に持ち、テキヤというカタギの周縁を生きる車寅次郎が、「昔し町」に

    流れ着くのは必然なのかもしれない。

     奇しくも『男がつらいよ』のはじまりは、蒸気機関車が消えゆくタイミングと重なる。

    昭和のフィルムにおいてすら昔の匂いを放つ駅舎が畳まれるのも宿命と呼ぶべきか、

    訪問はしばしば自動車に頼らずにははかどらない。

     ところがそんな限界集落で『男はつらいよ』の名を出すと、たちまち話に花が咲く。

    ロケ当時の目撃談が次から次に明かされる、まるでつい最近のできごとのように。

    「寅の放浪の旅であり、しかも、旅先は、瓦屋根の家や田圃の残る懐しい町が多い。

    はじめから古い町を舞台にしているから何年たっても古くならない。繰返しに耐えられる。

    新しい風俗を描いた映画が、時間とともに古くなってしまうのに対し、『男はつらいよ』は

    新しさを求めないから長く、長く残ってゆく」。

     時代の徒花を主役に据えた映画の磁場では、記録と記憶の時間感覚さえ歪む。

     

     それでもなお、時は流れる。

     1928年生まれの渥美清扮する寅次郎には、学校から落伍してもテキヤという

    一応の受け皿があった。対して1970年生まれの吉岡秀隆演じる甥の満男は、

    『エヴァ』をはるか先取りするように、ただ一切の不満を自己参照して内に向けて

    鬱屈を溜めるより道を持たない。このシリーズに終止符が打たれたのは1995年、

    地下鉄サリン事件と同じ。

     浪人中の満男の愚痴をさくらが咎めて言った、という。

    「おじさんは社会を否定しているんじゃなくて、社会に否定されているのよ」。

     成員を否定する社会はやがて、その成員によって否定される。

    勝ちたいんや

    • 2018.03.25 Sunday
    • 21:40

    「数学はサッカーのさまざまな疑問に答えられる。チャンピオンズリーグ決勝の終了間際に

    2ゴールが決まる確率は? マンチェスター・ユナイテッドのファンがどう言おうと、これは

    純粋なランダム性の問題だ。なぜバルセロナの『ティキ・タカ』のパスはあれほど効果的

    なのか? それは幾何学や動力学の問題だ。なぜリーグ戦の勝ち点は3なのか? 

    それはゲーム理論やインセンティブの問題だ。メッシとロナウド、どちらの方が名選手か?

    それは巨大な統計的偏差の問題だ。ヒートマップやパス・データは試合の何を物語るのか?

    それはビッグデータやネットワーク化されたシステムの問題だ。なぜブックメーカー(賭け屋)

    はあれほど魅力的なオッズを提示できるのか? それは確率と心理学の組み合わせの

    問題だ。そしてなぜギャンブルで勝つのは難しいのか? それは集合知と平均の問題だ。

     こうした疑問については。本篇で追い追い詳しく説明していくつもりだが、私の夢は

    もっと先にある。『サッカーマティクス』(サッカー数学)の問題は、単に飲み屋の会話の

    ネタになるような、数学にちなんだサッカー雑学をいくつか提供することではない。あなたの

    数学観とサッカー観の両方を一変させることなのだ。私は数学とサッカーが互いに手を

    取り合えると信じている。数学はどうあがいてもサッカーに勝てないが、互いに学び合える

    ことはたくさんある。数学はサッカーの理解に役立つし、サッカーは数学の説明に役立つ」。

     

     粘菌(変形菌)なる奇妙な生物がいる。摂食で栄養を補給しつつも胞子で増殖する。

    「粘菌は脳を持たず、単一の細胞からなる。粘菌の“体”は、養分を輸送する網目状の

    管のネットワークである」。効率性とリスクヘッジを兼備したまことに見事なネットワーク

    作りで知られるこの粘菌だが、実はこのシステムがバルサのパスワークに酷似する。

    他方で、そのチームを計7-0で粉砕したハインケス・バイエルンのフルコート・プレスは

    ライオンが協力関係のもとで獲物を仕留める連携の仕方にひどく重なる。

     とはいえ、まだジャンル開拓の端緒に過ぎないというべきか、それとも単にファンの

    知的水準に合わせたせいなのか、本書における考察は全般に粗雑としか見えない。

     件の粘菌についても、ソーンとネットワークの実例として筆者が提示するのは、とある

    試合におけるたった一点のゴール・シーンに過ぎない。数多の試合サンプルの分析から、

    この「構造」と得点の相関性を説明するでもなければ、チャンス・クリエイトをめぐる他の

    説明関数を深く検討するでもない。ディフェンス側が数的優位を作って絞り込む、という

    アプローチにしても、狩りならばなるほど追いつめてしまえばほぼゲームセット、ただし

    サッカーの場合、味方にボールを預けるとか、ファールをもらうとか、相手の身体に当てて

    ラインを割る、という逃げ道がある。この手の戦術分析やパスワークの構築メソッドなんて、

    手が使える、つまりはるかに高いプレイ精度の期待できるバスケットボール界隈にいくらでも

    数理的データが転がっていそうなものだけれど。

    「カリスマ性のあるリーダー」とやらが「チームの努力レベル」を引き上げると宣う精神論に

    至ってはただ閉口させられるばかり。サッカーにおいてそのパフォーマンス曲線を規定する

    ために必要な関数はいったい何なのかを割り出したり、「カリスマ性」を数学的見地から

    定義するのが仕事というものだろう、そんなものがあればの話だけれども。

     勝ち点の設定とゲームプランの関連にしても、得失点差が場合によっては命取りになる

    レギュレーション下において、実戦のスコアラインに応じて目指すべき戦略がその都度

    変わってくることについての考慮はなんら図られない。

     ブックメーカーを出し抜いて儲けを得るには、というギャンブル論にしてもはるか昔に

    語られ尽くした統計学の焼き直しで、目新しい話は何もない。次に高騰する銘柄はこれ、

    なんて記事を真に受ける輩が後を絶たないのを鑑みるに、これでも世間的には十分に

    フレッシュな知見なのかもしれないが。

     

     数値化されない幸福、それは例えば鳥谷、西岡、糸原に発狂せずにいられること。

     北條君、かわいいやん。

    時間と自由

    • 2018.03.22 Thursday
    • 23:40

    『東京物語』の終わり際、笠智衆が原節子に妻の形見の懐中時計を渡す。何かせずには

    いられない、時間を持て余す実子や孫とは対照的に、夫を戦争で亡くしたことで時代への

    同期化に立ち遅れたとも見える義娘は、強迫的なまでに柔和な笑顔をもって存在すること

    それ自体の幸福を湛える老夫婦の側に配置された風に映っていた。

     ところがその原節子が言う。

    「私、ずるいんです」。

     老いた寡夫をひとり取り残す密やかな裏切りの瞬間。

     

    「たとえば小津の映画ではキャメラが動かないと誰もが涼しい顔で口にする。低い位置に

    据えられたキャメラの位置も変わらない、移動距離がほとんどない、俯瞰は例外的にしか

    用いられない。こうした技法的な側面を語る言葉に含まれている動詞の否定形は、これまた

    ごく自然に、描かれた世界の単調な表情を指摘する文章へとひきつがれる。小津に

    あっては、愛情の激しい葛藤が描かれない。物語の展開は起伏にとぼしい。舞台が一定の

    家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない。このあといくらでも列挙しうるだろう

    こうした否定的な言辞が、ながらく小津的な単調さという神話をかたちづくってきた」。

     ところがこうした「小津的」なる「紋切型」が広く共有されているのは、「誰も小津

    安二郎の作品など見ていないからだ。……小津安二郎の映画のどの一篇をとってみても、

    それは小津的なものに決して似ていない」、そう蓮實は喝破する。

     

    『晩春』から『秋刀魚の味』に至るまで、後期の小津映画に共通する構造として2階という

    空間の特殊性を指摘する。そのフロアは「たえず25歳でとどまりつづける未婚の女」にのみ

    立ち入りを許された、宙に浮いた「特権」空間となる。その「特権」を象徴するものが、決して

    画面に入り込むことのない「不可視の壁」としての階段。ただしこの記号的共通性をもって

    「小津的な」枠へと組み込むことを「小津安二郎の映画」は決して許さない。2階の存在と

    階段の不在を執拗に焼きつけていたはずのフィルムが、『秋刀魚の味』の最後において

    不意に階段のフルショットを映し出す。「宙に浮かぶ空間が、特権的な住人としての25歳の

    娘を排除した結果、物語は終ろうとしている。そして小津的『作品』の内部には、誰も

    いなくなった2階という名の『無』が確実に生産されたのだ。……娘が嫁に行ったから

    2階が空になったのではない。宙に浮んだ空間が女性という通過者を排除したがゆえに、

    『作品』の説話論的持続がその運動の契機を見失ってしまったのだ。……一貫して視界から

    遠ざけられていた階段が、その不在の特権を剥奪され、階段としてフィルムの表層に

    浮上した瞬間、それは凶暴なまでの現存ぶりによって後期の小津的『作品』の基盤を

    そっくりくつがえしてしまう」。

     

     降らないはずの雨が空から落ちてくる。「あからさまに何かに脅えたり驚いたりしてみせる

    人物は、まったくといってよいほど登場することがない」はずなのに、『麦秋』においては

    その禁をたやすく無化してみせる。

     型があればこそ可能となる型破りをもって、小津が「自由」を表現し続けたことを晦渋な

    書き口ともに表現したテキスト。「映画には文法がないのだと思う」と言った男は、皮肉にも

    文法をもって讃えられ、その開かれた侵犯者としての顔に気づかれぬままに通り過ぎる。

    「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言った男は、ただし同じ「豆腐」を作り続けた

    わけではない。客に言わせればいつもの味、ただし店主が織り込んだ密やかな「ずれ」を

    感じ取れる瞬間があるとすれば、それは唯一口に入れている間だけ。語るとはすなわち、

    記憶に対していつもの味を更新する作業に他ならない。

     異化作用の再確認か、はたまたアンリ・ベルクソンの焼き直しか。

     

     今さら、という話ではあるが、ただ勿体ぶっただけのこの文体の醜悪たるや。

    「解放こそ、映画をめぐるあらゆる言説がかかえこむべき義務にほかならない」。

    「小津安二郎の映画が美しいのは、何よりもまず、それが自由な映画であるからだ」。

     みすぼらしいエピゴーネンどもを別にして、いったい誰がこの蓮實的な言い回しで

    「解放」や「自由」を説得されるというのか。

     原著1983年の本書に刻まれたごく初歩的な誤謬すらも修正されないまま今日に

    至ってしまったというのが、まともに読まれてこなかった無二の証左だろう。

     友人宅とはいえ、『秋日和』に堂々と階段の昇降が映っていることには気づかぬふりを

    決め込まねばならないのだろうか。あるいは『東京物語』、老夫婦に割り当てられるのは

    息子、娘の生業から隔離された空間としての2階(もしくはそれ以上)。だからこそ、

    酒の力を借りて杉村春子の美容院の椅子を侵犯する笠のシーンが際立つというのに。

    「グラデュエーション」って尾崎豊か。silhouetteがどうやったら「シュリエット」になるのか。

     

    「誰も小津安二郎の作品を見てなどいない」、蓮實重彦の作品もまたそうあるように。