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- 2020.05.10 Sunday
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「ハマのメリーさん・白いメリーさん、横浜・神奈川で生まれ育った、あるいは住んでいる
人ならば名前だけは聞いたことがあるのではないだろうか。
実際に見た人も少なくない。聞くと、その証言のほとんどが『背骨の曲がった白塗りの
お婆さん』『伊勢佐木町にいるけどフランス人形だと思った』『今はああだけど、実は
華族出身らしいよ』など、表面的でつかみどころがなく、実際のメリーさん、本当のメリー
さんを知っている人はあまりいない。証言のすべてが現実感がなく、噂の延長の域を
出ない。例えていうなら、まるで横浜という街の風景を語るかのごとく、みんなが話し
始める。しかし彼女の存在自体が明らかな現実であり、風景になることなどできない。
第一、この近代として肥大化した横浜に、日本の戦後を引きずったメリーさんがいたと
いうこの事実は、痛烈な風刺以外の何物でもない。どこから来て、どこに消えたのか?
メリーさんって本当は、何者なのか? それはわからない……。では、これから作る映画の
テーマとは? 私の興味、関心とは何なのか? それは、今までメリーさんと関わった
人たちである。それぞれが持つ自分の中のメリーさん、自身の人生の中でどういう関わりを
持ったのかを話してもらうことで、横浜という町、そこで暮らす人々を記録できないか、
残すことはできないだろうか」。
カメラのフレームが収め得るのは、そこにあるものだけ。
捉えられる限りのものはすべて捉える、そんな異質な文体の濃度に気圧される。
メリーや周辺人物にとってのキーとなるような場所ならばともかく、通常ならば普通名詞の
モブとして処理されるようなところでさえも固有名詞が刻まれる。例えば「テレクラ」ではなく
「バレンタインコール関内店」、「葬儀場」ではなく「奉誠殿」。
そしてその執拗さゆえにこそ、かえって中心たるメリーの不在が浮上する。かつて横浜で
カメラを構えればおそらくは写り込んだだろうメリー、そして今そこにはいないメリー。
そこにあるもののみを捉えているはずのレンズが、そこにかつてあったものを降臨させる、
純文学ならぬ純ドキュメンタリーとでも言うべきか、ドキュメンタリーの方法論的自己言及が
束の間、マジックを引き起こす。
このテキストが編まれるまでに事実上、20年もの時が割かれた。この間にも、少なからぬ
登場人物は既に他界している。かつてカメラを前にしてメリーを語った彼らはもういない。
そしてメリーももういない。
死にゆく人、変わりゆく街を対象化することが否応なしに気づかせる、写実なる仕方が
切り取るものとはまず何よりも時間に他ならないことを。フィルムはかつてそこにあったことを
証する存在としてそこに横たわる。
「あなたは死によつてのみ生きていた類ひまれな作家でした」。
埴谷雄高は、弔辞に寄せて原民喜をこう評した。
「原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そうした考えに
至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには持って生まれた敏感すぎる魂、
幼い頃の家族の死、災厄の予感におののいた若い日々、そして妻との出会いと死別が
深くかかわっている。
死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮かび上がることが
ある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった」。
その前半生は、世界との不和から彼を庇護する亡父の淡い記憶にすがる典型的な
ピーターパンとして過ぎ去った。
大学こそ出たが、文学で食えるわけでもない、職に就くでもない、仕送りで暮らす彼に
縁談が舞い込み、そして結ばれる。「きつといいものが書けます」と夫を後押しする妻は、
ただし間もなく結核に斃れる。
1945年8月6日、「死によつてのみ生きていた類ひまれな作家」なる表現はもうひとつの
意味を獲得する。原はその瞬間を生家の厠で迎えた。
「突然、私の頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わず
うわあと喚き、頭に手をやって立ち上がった。嵐のようなものの墜落する音のほかは
真っ暗でなにもわからない」。
街を逃げ惑ううち、「天ノ命」を悟る。「コハ今後生キノビテ/コノ有様ヲツタエヨ」と。
「僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には
一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある」。
否、この日を境に、「僕」にはもはや「嘆き」しかなくなった。
彼の代表作「夏の花」は、いかにも異様な構成を取る。物語の終わりは不意に現れる
「N」なる人物に寄り添って閉じる。生死を知る術もないまま、「N」は妻を探して収容所を
さまよい歩く。「どの顔も悲惨のきわみではあったが、彼の妻の顔ではなかった」。
その前々日に「私」が妻の墓参に出向く書き出しからして、「私」は「N」ではない。
しかし、「嘆き」は「私」をたとえば「N」に変えた。原爆は「私」をたとえば「N」に変えた。
「天ノ命」に導かれて「夏の花」をしたためた原には、もはや「嘆き」すらなくなっていた。
「透明」な存在は「ヒバリになっていつか空に行」く、それもまた「天ノ命」なのか。
To be, or not to be, that's the problem.
この問いに挑むことを余儀なくされた者のみが、「作家」たる資格を持つ。