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  • 2020.05.10 Sunday

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    「がらんどう」

    • 2020.04.21 Tuesday
    • 20:56

     駆け落ちた姉が身ごもって十余年、その赤子が大きな腹を抱えて郷里に戻る。

    「秋幸には、そっくりそのままかつてあったことを芝居のように演じなおしている

    気がした。いや、自分が、かつて十六年前の兄と同じ役を振り当てられている

    気がした」。

     幻聴とアルコールに苦しむその兄は「おれたちを棄てた、殺してやる」と

    包丁を手に母と秋幸を脅し、そして間もなく、桃の節句に首を吊った。

     

     秋幸は五人兄弟の末子にして、ただひとりの種違い。

    「人が様々な噂をしていたのだった。その噂のひとつひとつに自分がかかずらって

    いるのが不思議だった。おれはここ在る、今、在る、秋幸はそう思った。だが、

    人夫たち、近隣の人間ども、いや母や義父、姉たちの関係の、あの、人の疎まれ

    憎まれ、そして別の者には畏れられうやまわれた男がつくった二十六歳になる

    子供である気がしたのだった。『あの男はどこぞの王様みたいにふんぞりかえっとる

    わだ』いつぞや、姉の美恵はそう言ってからかった。『蠅の糞みたいな王様かい』

    秋幸は言った。その蠅の王たる男にことごとくは原因したのだった」。

     

    「片眼片脚」、父殺し、近親相姦……『オイディプス』に通うのは、単にプロット面に

    留まらない。それは預言か、はたまた虚言か、女の持ち込む噂がさらなる噂を生む、

    リフレインが叫んでる、そんな増幅装置としての路地、すなわちコロス。

     実際、『枯木灘』にも『オイディプス』にも英雄などいない。そこにあるのはただ

    噂に、コロスに、翻弄される「がらんどう」の姿。これは断じて秋幸の物語ではない、

    すべて物語はコロスの中にしかないのだから。

     話すは離す。血に基づく親和の出来事は時に痴を交え噂として話されることで

    原形を離れ、地に憑依する神話へと変わる。騙りを語り、語りを騙りと書き換える。

    火によって路地は焼かれようとも、碑をもって噂はうたかたを逃れ、日の下でかくして

    性器は石碑となってその不滅を獲得する。熊野の麓、聖は性より生成する。

     

     情緒を増長させる、その方法としてのあえての冗長。

     あまりにしばしば、ぎこちない仕方で回想が挟み込まれる。それはすなわち、

    秋幸が噂の階層の中に辛うじて生を見出す、その存在のありさまを反映する。

    同じエピソードを幾度となく聞き、果たして既視感は既成事実へと変わる。

    過去の真相を求むべき深層などどこにもなくて、ただ噂のみが繰り返される。

    コロスのロゴス、コロスが殺す、路地のロジック。やがて気づくだろう。

    「竹原でもない、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった」。

     秋幸を築くのは血ではなく、地。もとより、土から作られたアダムは、吐息を

    吹き込まれることで生を得た。神の使者たるコロスの噂で「がらんどう」が埋まる、

    埋まるを通じて人は生まる。地で知を洗う。噂に聞こゆ昔はかくして具体を遣わす。

     

    「働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに

    一枚膜を張り、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、

    その土をつるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけの

    がらんどうの体腔から、日にあぶられた土の匂いのする空気、めくれあがる土に

    共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の

    風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた

    自分が、昔を持ち今を持ってしまうのが不思議に思えた。昔のことなど切って

    捨ててしまいたい。いや、土方をやっている秋幸には、昔のことなど何もなかった。

    今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸だった。

    シャベルが秋幸だった。めくれあがった土、地中に埋もれたために濡れたように

    黒い石、葉を風に震わせる草、その山に何年、何百年生えているのか判別つかない

    ほど空にのびて枝を張った杉の大木、それらすべてが秋幸だった。秋幸は土方を

    しながら、その風景に染め上げられるのが好きだった。セミが鳴いていた。幾つもの

    鳴き声が重なり、うねり、ある時、不意に鳴き止む。そしてまた一匹がおずおずと

    鳴きはじめ、声が重なりはじめる。汗が額からまぶたに流れ落ち真珠のように

    ぶらさがる。体が焼け焦げている気がした」。

     文体が、死すべき肉の「がらんどう」でしかあれない運命を説き伏せる。

     蠅の王、風を追う。太陽の下、すべては空しい。

     肉らしい、すなわち、憎らしい。

     

     オイディプス、エディプス・コンプレックス、ポルノを芸術と強弁すべく誤読された

    デウス・エクス・マキナとしてのS.フロイトの話ではなく。「がらんどう」、いみじくも。

     我思う、ゆえに我なし。

     ほとんど偶然的な、そしてまさしく無意識的な、暗黙裡のこの喚起をもって、

    オーストリアン・ジャンキーは近代の桎梏を、漆黒を解き放つ。

     

     すべての神は紙より出ずる。

    ブリコラージュ

    • 2020.04.08 Wednesday
    • 22:44

    「日本の建築の長い流れの中に短い安土桃山時代を置くと、まず信長により

    国籍不明の天守閣が突発的に出現したこと、次に秀吉の聚楽第で書院造が

    ピークに達したこと、そして利休の茶室が生まれたこと、この三つをもたらした

    時代といっていいだろう。頭の中に三つを同時に思い描くなら、あまりのちがいに

    困惑し、統一性に欠けるメチャクチャな時代と評するしかあるまい。

     もちろん困惑の理由は利休の茶室で、どうして、和漢洋混在の天衝く建物と

    豪華絢爛の大建物と並んで、広さ畳二枚の小屋のような建物が登場するのか。

    利休は、社会的には信長と秀吉の茶頭として和漢洋混在と豪華絢爛の中心に

    いながら、なぜあのような美学を生み出したのか」。

     

     禁欲とはすなわち、欲を知り尽くしそれに一度溺れたもののみに許される業、

    ものより持たざる者においてはそれを禁ずる必要すらない。

    「材料にはじまり構造、技術、平面に至るまで、書院造の到達点を一つずつ

    数えるようにして取り去り、汚し、切り捨てた。そして、代わりに、極端に狭い

    平面の上に、ありあわせの材と構造を素人じみた技術で組み立て、仕上げた」。

     かくして天下人を招く茶室、広さ二畳の待庵は利休の手により完成する。

     本書では、「豪華絢爛」なる時代の徒花として、極小空間は説明されない。

    わび茶の系譜の中で、待庵の成立要件は、いみじくも「豪華絢爛」にこそある。

    「反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉という

    物と力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は

    成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茶室という茅屋の内に

    封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる」。

     

    「待庵には、水、火、シェルターの三つがあり、三つしかない」。この「極小が

    極大を揺るがし、極大は変質して新しいスタイル[数寄屋造]が生まれた。

    この日本はむろん世界の建築史上でも極めて珍し」い。

     本書を読むにつれて、逆説的に疑問が芽生える。建築史としての興味深い

    議論が展開されるほどに、そもそもの「茶室」の定義を見失う。待庵からして

    住まいとの差別化、茶に固有の特徴を見出しがたい。ある面でそれを何より

    如実に示すように、「茶道の世界では、作法や茶道具や床の飾りに比べ、

    それらを容れる器としての茶室への関心は薄い。……千家が茶室で使う

    道具を作るため……『千家十職』の制が整っているが、その中に大工職はない」。

    利休の流れを引いているはずの総本山からしてこの始末。極論に走れば、

    公園のベンチに腰かけペットボトルの茶を流し込む、それはもはや緑茶である

    必要すらもなく、ただし、そこに「茶室」の成立を見ていかなる妨げがあろうか。

     

     巻末、磯崎新との対談の中で語る。

    「茶室の本質はやはり仮設。ブリコラージュなんですよ。……そのブリコラージュの

    対極としてあるのが、ヨーロッパでいえば教会、日本で言えば社寺」。

     そもそもの『野生の思考』の議論はある面、藤森の語りを裏切るように

    展開していく。つまり、「教会」や「社寺」の堅牢にも見える論理体系とて、

    その皮をめくってみれば、原住民と同様の、その場その場の帳尻合わせ、

    まさしくブリコラージュなのだ、と。すべて形を持つとは、ブリコラージュの軛に

    服すること、所与の拙い切り貼りでしかあれぬことを「反転」して祝福する。

    「人は一人、天地の間にあり、表現はそこからはじまりそこに帰る」。

     なんたることか、正反合をなぞるように、利休、C.レヴィ=ストロース、藤森は

    奇妙な仕方で「茶室」を超えて、ブリコラージュの「悟り」に交わる。

    濃厚接触

    • 2020.03.31 Tuesday
    • 20:14

    「“売春島”――。三重県志摩市東部の入り組んだ的矢湾に浮かぶ、人口わずか

    200人ほどの離島、周囲約7キロの小さな渡鹿野島を、人はそう呼ぶ。島内の

    あちこちにパブやスナックを隠れ蓑にした“置屋”と呼ばれる売春斡旋所が立ち並び、

    島民全ての生活が売春で成り立っているとされる、現代ニッポンの桃源郷だ。……

    島内には、実際に女と対面して選んで遊べる置屋が立ち並ぶ。そして、それ以外の

    民宿、ホテル、喫茶店、居酒屋などでも女を紹介してくれるのである。

     だが、それらは客目線の域を出ず、あくまでこの島の表層部分を見聞きしたに

    過ぎない。『“売春島”というヤバい島がある』と。

     そして、その“ヤバさ”は、こんな噂から来ているのである。

     

     ・警察や取材者を遠ざけるため、客はみな監視されている

     ・写真や動画を撮ることは許されない

     ・島から泳いで逃げた売春婦がいる

     ・内偵調査に訪れた警察官が、懐柔されて置屋のマスターになった

     ・売春の実態を調べていた女性ライターが失踪した

     

     これらの話は、インターネットや口コミでまことしやかに囁かれているものだ。

    いずれもが完全な検証はされていない。

     だが、誰かが創作した小説の中の話でもない。事実、このうちいくつかは実際に

    起きた事件が元ネタだ。“売春島”は実在する。しかも、古くからこの島では公然と

    売春が行われ、それは今も続いている……本書では、“売春島”が凋落した全貌と、

    いまだ知られざる噂の真相を検証していく。それは、この島に魅せられた僕が、

    歴史の生き証人たちを訪ね歩きそして、本音で語り合う旅でもあった」

     

     聖のモチーフはすべからく、穢の極致たる性へと収斂する。

     江戸の昔、あるいは以前から、この船着場には「菜売り」という風習があった。

    「菜売りはね、小さな天馬船(甲板がない木製の船)に乗って、畑で採れた菜っ葉や

    大根などの野菜を船に売りに行くんだよ」。女は水夫を相手に、洗濯などの雑務も

    引き受け、そして当然、春をもひさいだ。

     そうして、民俗学にかこつけた大叙事詩を展開することもできたかもしれない。

     あるいは、山師たちの大言壮語を真に受けて、面白おかしく脚色の限りを重ねて、

    新たなる都市伝説の舞台に仕立てることもできたかもしれない。

     どうとでも転がせたはずなのに、それにしても跳ねない。本書全体をひたすらに

    重苦しさが覆う。束の間の栄華が通り過ぎた後の構造不況に蝕まれた街の空気を

    何にも増してこの文体が物語る。

     はっきり言えば、つまらない。何がここまでテキストをつまらなくしているのか、

    その一端を元女衒の証言に垣間見る。

    「でもな、ほんとに良い島やったよ。良いというのはな、『男のために』と

    みんなが同じ目的で来ているやんか。せやから荒んだ気持ちが無いんよ。

    私にしても『何で私だけが売春して稼がなアカンの』なんて気持ちは無かった。

    みんな和気藹々で、『どんだけ男に貢ごか!』てなもんや」。

     男に夢を見た女たちに男たちが夢を見た、そんな「良い」時代があった。

    本書の中心をなす、やがて経営破綻をもって島を追われる元女将は、

    いみじくもコンサルを騙る男に吸い尽くされて、そしてすべてを失った。

    そんな夢をなくした島を歩いて回れば、むき出しの現実を拾う羽目になる。

    斜陽ですらない。買うべきものも、売るべきものも、もはやない。

     そうして島に残るものといえば例えば、競売落札額500万円の物件に

    不動産評価額1億数千万円に基づく固定資産課税を催促しても涼しい顔の、

    現実を直視する能力すら持たない行政、既得権益の壁。

     筆者が真摯に向き合えばこそ、どうあがいても、つまらない。

     

     浄化を志向した末に、経済が死滅し、何もかもを失う。

    「売春島」のその姿、現在進行形の世界に限りなく似る。

    Q.E.D.

    • 2020.03.22 Sunday
    • 22:07

     を覚ましました。

     朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変ったことでは

    ありません。しかし、何が変なのでしょう? 何かしら変なのです。……

    空腹のせいかもしれないと思って、食堂に行き、……ところがそうしている

    間にも、その変なことはいよいよ変になり、胸はますますからっぽになって

    行くのでぼくはそれ以上食べるのをやめました。……カウンターの前に

    立って、係の少女からつけの帳面を受取りました。サインをしようとして、

    ぼくはふと何かをためらいました。……ふと、ぼくはペンを握ったまま、

    サインができずに困っていることに気づきました。僕は自分の名前が

    どうしても想出せないでいるのでした」。

    「名前」を失った「ぼく」、何者でもあれない「ぼく」は翻って、

    何者にも代入可能な「ぼく」として、「歴史に記載されたすべての

    事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判」の被告人として

    追われる羽目になる。近代自我の果てを「ぼく」に見て取ることは

    たやすい。むしろ主題としてはドストエフスキーに遡るのだろうが、

    一連の展開にカフカ『審判』を想起せずにいる方が難しい。

    「君自身の気分よりもぼくの言葉のほうが君そのものなんだ」。恐らく

    安部や時代の文脈に即せば、史的唯物論や疎外といった用語法から

    理解されるべきことばなのだろうが、現代の視座からはAIやアバターを

    先取ったものと読めないことはない。見る主体としての眼球のみを

    残して、見られる客体としての身体を透明にする、というモチーフは、

    「時間彫刻器」よろしく、後の『箱男』において反復される。

    あるいは恋愛、フェティシズム文学としての『壁』。

     

     と、作品中に仮託されたモザイクを列挙すればきりがない、ただし、

    労働者革命をめぐるあまりに理に落ち過ぎた寓意としての「洪水」を

    例外として、本書は間もなくその密度ゆえ空中分解を余儀なくされる。

     挿入歌が見事に帰結を叙述する。「一つの口でいちどきに二つの音を

    出すことはさすが出来ないらしく、全然関係のない歌を少しずつ交代に

    歌うので、何がなんだか分らなくなるのでした」。

     

      悲しい海辺の、ようこそ、わ……

      好きな誤解も、たし、たま、いい日

      気楽に他所見、悲しいの、る

      ため、駄々をこ、泣いているの、ねた

      朝の散歩、り、愛した、消えて、り

      ゆく、踊ろうよ、不幸な私

      ハイ、踊ろ、不幸なあ、うよ、なた。

     

     この詩を超える要約を本書がどうして持つことができようか。

     偽装されたシュール・レアリズムの狭間で、あからさまに着地点を失うことで

    『壁』は逆説的に成功を収める。いみじくも「ぼくは空想しプランを立て」、

    そして程なく破綻する、その一連の経過を自己言及的に例証する。

    「世界をつくりかえるのは、チョークではない」。かくして命題は証明された。

    俺らこんな村いやだ

    • 2020.03.16 Monday
    • 21:17

    「ここじゃない、どこか遠くへ行きたい。だけど、それがどこにもないこと。……

    俺も昔、それを知ってた。だけど、大丈夫なんだ。今、どれだけおかしくても、

    そのうちちゃんとうまくいく。気づいた頃には、知らないうちに望んでいた

    “遠く”を自分が手にできたことを知る、そんな時が来る」。

     多少の叙述トリックによる目先の違いこそあれ、本書の作品群のテーマは、

    「道の先」において提示されるこのテーゼを限りなく通底する。そしてこの主題に

    敷衍して、ほぼ共通の問題を露呈する点においても同工異曲の相を持つ。

    「実際の姿より、語る実態のない“東京”の方が、より“東京”っぽいんじゃないかな。

    漢字で書く“東京”じゃなくて、カタカナで“トーキョー”。軽くて、ちょっとニセモノ

    っぽい響き」。

     どの作品をめくっても、描き出される「ここ」といえばそのことごとくが「語る実態の

    ない」「ここ」、あるいは筆者に倣って「ココ」と表記すべきか。より正確には、そして

    より罪深くは、その風景を描き出す気概すら持とうとはしないために、「語る実態」を

    持ち得ない「ココ」へと堕落せしめられてしまった。

    「気持ちがギスギズしていて、見るもの、聞くもの全てが、怒りに結びついてしまう」。

     こんなあからさまな文字列を並べて横着する前になすべきは、「見るもの、聞くもの

    全て」を切り出すことで、「ギスギス」や「怒り」を読み手の側に喚起することでは

    なかろうか。それを例えば「F県」や「U市」と呼ぼうがそんなことはどうでもいい、

    ただし、仮にも『ロードムービー』なる表題を掲げておきながら、「ロード」をまるで

    記述しようとしない、その態度はもはや論外としか言えない。

    「ここ」が「ココ」でしかないがために孕んでしまう構造的な障害は、たぶん筆者が

    その風土に重ねて描き出そうとしているだろう、スクールカーストにおける内と外の

    問題をも平板化して、定型的、「カタカナ」的記号へと変えてしまう。

     不機嫌な人間が世界を不機嫌に捉えるのか、不機嫌な世界が人間を不機嫌に

    させるのか、鶏が先か、卵が先か、ではない、同一の表象だ。

     

    「ここ」が「ココ」なら、「わたし」は「ワタシ」。

     おそらく筆者の意図するところではないだろうが、ある面、真を衝いてはいる。

    「軽くて、ちょっとニセモノっぽい」。

     ちょっとどころでないにせよ、本書の要約としてこれ以上の表現があるだろうか。