「ハッピートレーニング!」

  • 2016.11.13 Sunday
  • 21:53

「生物的資質とハードトレーニングが、相互にどのようにして運動能力に影響を

与えるかというテーマが、生物学者、生理学者、スポーツ科学者の協力をもとに

研究されることとなった。そして、ようやく私たちは、スポーツ界における大きな

争点である『遺伝か環境か』(nature-versus-nurture)という議論の入口にたどり着いた。

この議論をさらに推し進めると、性別、人種というようなデリケートな領域に踏み込む

ことになるが、科学と同様、本書においてもその点を避けては通れない」。

 

 ポリティカリー・コレクトネスの過剰は時にスポーツにも影を差す。

 このテキストの問題提起は、本書発表後に受けた批判への反論としての「あとがき」に

ある面では凝縮される。「遺伝的資質という概念を含む社会的メッセージは、人々の

努力を制限し、潜在的能力を発揮することを妨げ」てしまう、との懸念に対して、

筆者はこう答える。「とても気になるのは、彼らにとって望ましい社会的メッセージに

そぐわない科学的事実は拒否すべきだと主張しているように見えるところだ。……

私たちは、個々人の特異性についてもっと多くのデータを集めようと努力すべきであり、

そこから無理に目をそらさせようとするメンタリティを受け入れてはならない」。

 そうは言っても当然、筆者の結論は遺伝がすべて、と訴えるものではない。むしろ逆、と

述べてしまうことさえ飛躍ではない。何せ、スポーツ遺伝子について分かっていることすら

ほんのわずかなのだから。

100%の『遺伝』(nature)100パーセントの『環境』(nurture)」。

 何はともあれ、やらないことにははじまらない。

 さらに言えば、あたかも「一万時間の法則」に抗うかのように、事実がしばしば告げるには、

特定競技への選択と集中よりも、とりあえずいろいろやった方がいい、らしい。

 

 ウィトルウィウス的アスリート。

 20世紀初頭のスポーツ科学を支えたパラダイムが言うには、「最も優れたアスリートは

均整のとれた平均的な体格の持ち主である。……1925年には、世界的レベルの走り

高跳び選手と砲丸投げ選手とがそうであったように、平均的なバレーボールのエリート

選手と円盤投げ選手の身体の大きさは同じくらいだった」。

 翻って現代、「ある種目で成功するために必要な身体は他の種目に適した体型からは

離れて、それぞれの種目に高度に特化した独自の場所へと突進していく」。

 

 スポーツ観戦にも、実践にも、今日の遺伝研究にも、あるいは教育にも。

 本書が引きつける関心の射程はことのほか広い。

 そしてその社会的メッセージは、ほとんどすべての人間に該当するものと言っていい。

「始めてみることは、最先端の科学でさえなしえない自己発見の旅へ出かけること」。

 遺伝の障壁を論じることと、広く門戸を開くことは何ら矛盾しない。

 あるいは、今日のスポーツ科学がある競技において短所と判定する遺伝的資質を

長所へと変換するような運動理論の余地が存在したとして、特に驚くべき点はない。

 いずれにせよ、各人の試行錯誤なくして、いかなる道も開かれ得ない。

 こうしたことは何もスポーツに限らない。そして、こうした議論にきちんと向き合うことが

ポリティカリー・コレクトネスに反するものとは、少なくとも私には見えない。

「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を

遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」。