the Great Escape

  • 2018.10.19 Friday
  • 23:30

 トンブクトゥ。

 どこかリズミカルなこの地名を知ったのは高校生の頃、『村上龍料理小説集』の一節、

「クスクス・トンブクトゥ」なるさらにメロディアスを強調した料理の存在を通じてのこと。

 

「かねがねヨーロッパの歴史家や哲学者は、アフリカの黒人は『文盲』で『歴史をもたない』と

主張してきた。ところが、トンブクトゥの古文書は正反対の事実を告げている。ヨーロッパの

大半が中世のぬかるみを抜けられずにいる時代に、洗練された自由な思想の社会が

サハラの南に花開いていたというのだ。その文化は、1591年にモロッコ(サアド朝)に

征服されていったんは地下に潜ったが、18世紀になってふたたび隆盛をみた。しかしその後、

ほぼ70年におよぶフランスの植民地支配でこの伝統はまたも消え失せる。古文書は秘密の

戸棚や保管庫に隠され、あるいは地面に埋められた。

 ユネスコの専門家は、この失われた遺産を取り戻すための機関の創設を決める。

トンブクトゥに往時の栄華を多少なりとも甦らせ、サハラ以南のアフリカがかつて非凡な

著作を生み出していたことを世界に向けて証明するのが狙いだ」。

 そんな資料のひとつに、例えば『女性との性生活に関する男性への助言』なるものがある。

「これは、催淫剤や不妊治療薬について手ほどきをし、一緒に眠らなくなった妻をベッドに

戻す方法を教授するという内容である。……性的快楽は、イスラムでも是認されていると

断言し、勃起を持続させてオルガスムを高めるために祈ることまで推奨している。……

性的な刺激としてコーランの文句を利用するというのは、トンブクトゥの日々の暮らしにいかに

宗教が根づいていたかを示していると同時に、この地で実践されていたイスラムが形式に

とらわれない大胆なものであったことの証しでもある」。

 

 ところが、歴史は時にあまりに皮肉にできている。かつて多様性を湛えたこの地を

イスラム原理主義の魔の手が襲う。

“イスラム警官”に言わせれば、音楽は「神によって悪しきものとされている」。だから

携帯電話の着信音はすべてコーランの詠唱に統一するよう命じられた。あるとき、

カフェの店先でポータブルステレオの音楽を聞いてると、例の“警官”が現れた。

「あいつらはステレオからメモリーカードを抜いたんだ。三日後に返ってきたときには、

音楽が消えてコーランが吹きこまれていた」。

 アルカイダの使者にとっては、「新しく考え出されたことに注意しなさい。なぜなら、

新しく考え出されたことはすべて逸脱であり、逸脱はすべて正道を誤らせるもの

だからである」とのハディーズの一節がすべてだった。

 その基準に従えば、ようやく集めた377000冊ものトンブクトゥの古文書はいずれも

「逸脱」に違いなく、一度彼らの手に落ちれば燃やされる運命にあることは明白だった。

 ならば安全地帯へと避難させるより道はない。かくして彼らの大脱走がはじまる。

 

 不謹慎、といえば、これほどまでにその批判が妥当な楽しみ方もそうはあるまい。

 そんなことは分かった上で、なお胸が高鳴るのを抑えきれない。

 脱走フィクションにおいてキモとなるのはやはりスリル、つまり、敵役がどれほどまでに

血も涙もなく狂っているか、にかかっている。その点、本書の満たす要件は及第点どころの

騒ぎではない。音楽を聴いてうっかりリズムを刻んでしまう、映画ならばありがちなそんな

人間味演出すらも期待できないような、話の通じない連中が相手と来ている。

 こんな追っ手を振り切らねばならないのだから、どう転んでも面白くないはずがない。

 

 不謹慎、なるほどそうかもしれない。

 しかし、この楽しみ方こそが、少なくとも私に言わせれば、逆説的に本書に込められた

最大のメッセージなのだ。テキストをテキストとして享受することすらできない社会、

それはまさしくイスラムの聖典を大義名分に、他のテキストをすべて「逸脱」として排除する

おぞましい社会の姿に他ならない。

 この心性、何かに似ている、そう、例えば「世間」や「常識」を楯に、自らの「正論」を

振りかざし、他人の言行を狩ることに執心するネット上の不謹慎警察どもに。

 

 イスタンブールのサウジアラビア領事館で姿を消したジャーナリスト、ジャマル・カショギは

最後の寄稿に以下のタイトルを付した。

「アラブ世界が最も必要としているのは表現の自由」。

 

 狂気との間に交わすべき会話など存在しない。失われたものは戻らない。だから。

 逃げろ。

生きる歓び

  • 2018.09.23 Sunday
  • 20:02
評価:
本田 靖春
筑摩書房
¥ 864
(2005-10-05)

   公園の南のはずれに、このところようやく成木の風格をそなえて来た公孫樹が

  あり、根元を囲んで円型にベンチが配列されている。その中の南向きの一脚が、

  いつの間にか、里方虎吉の指定席みたいになった。

   老妻と二人暮らしの虎吉にとって、公孫樹の下の日溜りほどふさわしい場所は

  ない。彼の独り決めだと、公園は自分の屋敷なのであり、用を足すにも、いちいち

  公園の中の公衆便所へ出向いていくのである。

   その日の夕方も、虎吉はいつものベンチにいて、一服つけていた。終のすみかに

  なるであろう間口一間半の店舗併用住宅は、六軒幅の道路をはさんで、目と鼻の

  先である。

 

 一見リアリズムに徹した文体、しかしこの書き出しにみなぎるものはどこか叙事詩、

フォークロアを想起させずにはいない。それは例えば、昔々あるところに……、と語り部が

降臨させる何かにも似て、証言と証言を丹念に貼り合わせたモザイク状のタペストリーは、

不意に無時間的な想像の物語空間へと読者を誘わずにはいない。

「坊や、何してんだい?」

 それは同時に、4歳の幼児を異界へと連れ出したその一言にも通じる響きを秘めて。

 

 にもかかわらず、本書はやはりエミール・ゾラを髣髴とさせる自然主義の厳密な痛みを

孕まずにはいない。

「手近なだれかを別け隔てして、自分たちの小さな輪を守るという図式は、古くに

為政者が仕向けたものだが、それによって閉鎖性、排他性をいっそう助長された地方の

人々は、一度おぼえた麻薬を手放せない中毒患者のように、実は自分自身を貶める

陰口の快楽から、いまなお脱け出せないようである」。

「戦後最大の誘拐事件」をひもとけば、それは必ずや山間の集落が宿した歴史の闇へと

至らずにはいない。弱者がさらなる弱者に目をつけては責め苛む、そんなスパイラルの

終着点は幼児の命。伝統だ、習俗だ、という美辞麗句で塗り固めた生贄の儀式と

何一つとして変わるところはない。

「生家からどれだけ遠のいたところで、怯えが自分の体内に根ざしている以上、

そこから解放されわけはない」。

 奇しくもギリシア神話のオイディプスは「むくみ足」の由来を持つ。男もまた、脚に障害を

持っていた。傷は貧困の刻印だった。

 事件をめぐる情報が数限りなく寄せられる中、男への嫌疑を強めたものが生地に固有の

訛りだった、というのも彼に課せられた因果だった。

 

 死刑囚という究極の仕方で忌まわしき社会からようやく解放された男に待っていたのは

限りない浄化の瞬間だった。彼が残した辞世の句から。

 

  ほめられしことも嬉しく六年の

    祈りの甲斐を見たるついの日

 

かつてそこにあった

  • 2018.08.31 Friday
  • 21:17

「ハマのメリーさん・白いメリーさん、横浜・神奈川で生まれ育った、あるいは住んでいる

人ならば名前だけは聞いたことがあるのではないだろうか。

 実際に見た人も少なくない。聞くと、その証言のほとんどが『背骨の曲がった白塗りの

お婆さん』『伊勢佐木町にいるけどフランス人形だと思った』『今はああだけど、実は

華族出身らしいよ』など、表面的でつかみどころがなく、実際のメリーさん、本当のメリー

さんを知っている人はあまりいない。証言のすべてが現実感がなく、噂の延長の域を

出ない。例えていうなら、まるで横浜という街の風景を語るかのごとく、みんなが話し

始める。しかし彼女の存在自体が明らかな現実であり、風景になることなどできない。

第一、この近代として肥大化した横浜に、日本の戦後を引きずったメリーさんがいたと

いうこの事実は、痛烈な風刺以外の何物でもない。どこから来て、どこに消えたのか? 

メリーさんって本当は、何者なのか? それはわからない……。では、これから作る映画の

テーマとは? 私の興味、関心とは何なのか? それは、今までメリーさんと関わった

人たちである。それぞれが持つ自分の中のメリーさん、自身の人生の中でどういう関わりを

持ったのかを話してもらうことで、横浜という町、そこで暮らす人々を記録できないか、

残すことはできないだろうか」。

 

 カメラのフレームが収め得るのは、そこにあるものだけ。

 捉えられる限りのものはすべて捉える、そんな異質な文体の濃度に気圧される。

 メリーや周辺人物にとってのキーとなるような場所ならばともかく、通常ならば普通名詞の

モブとして処理されるようなところでさえも固有名詞が刻まれる。例えば「テレクラ」ではなく

「バレンタインコール関内店」、「葬儀場」ではなく「奉誠殿」。

 そしてその執拗さゆえにこそ、かえって中心たるメリーの不在が浮上する。かつて横浜で

カメラを構えればおそらくは写り込んだだろうメリー、そして今そこにはいないメリー。

そこにあるもののみを捉えているはずのレンズが、そこにかつてあったものを降臨させる、

純文学ならぬ純ドキュメンタリーとでも言うべきか、ドキュメンタリーの方法論的自己言及が

束の間、マジックを引き起こす。

 このテキストが編まれるまでに事実上、20年もの時が割かれた。この間にも、少なからぬ

登場人物は既に他界している。かつてカメラを前にしてメリーを語った彼らはもういない。

そしてメリーももういない。

 死にゆく人、変わりゆく街を対象化することが否応なしに気づかせる、写実なる仕方が

切り取るものとはまず何よりも時間に他ならないことを。フィルムはかつてそこにあったことを

証する存在としてそこに横たわる。

「由らしむべし、知らしむべからず」

  • 2018.05.10 Thursday
  • 23:12

「日本の財政はもはやほとんど破綻しているのであって、いかなる目標を掲げようが、

いかに歳出を削ろうが、どれほど増税しようが、再建は覚束ないというのが現実である。

 なぜこのような惨憺たる状態に立ち至ったのか。その原因は数かず指摘されている。

なかでも本書が注目するのは『タックス・イーター』(tax eater)の存在である。国民の税金を

食い荒らし、日本経済の屋台骨を蝕むタックス・イーターの悪行を明るみに出す。それが

本書の目的である。

 『税は文明の対価である』という。アメリカの最高裁判事、オリバー・ウェンデル・

ホームズ・ジュニアの言葉である。……『税は文明の対価である』というならば、税を

納める者にはその対価としての文明が引き渡されなくてはならない。ところが、タックス・

イーターは日本の政治と経済の隅々に至るまで網の目を張り巡らし、法を逆手に取りながら、

我々の見えないところでその『文明』を破壊しているのである。その悪行を看過するかぎり、

我々の納める税が文明に生かされていくことはなく、我々に対価として引き渡されることも

ないであろう。まずその事実を知るところから始めなくてはならないのである」。

 

 とりあえず前提として確認しておかねばならないのは、筆者が大蔵・財務省OBであると

いう点である。そうした立場に基づく責任逃れの匂いをどうにも指摘せざるを得ない。

 筆者曰く、政官業の「『鉄のトライアングル』の形成によって、霞が関の官僚群でも

頭一つ抜き出していたはずの大蔵省は財政をコントロールする力を失っていった。……

鉄のトライアングルはそうした大蔵支配の体系への抵抗勢力でもあったのである」。

 今日のガバナンスなきガバメント問題とまるで同じ、「コントロールする力を失って」

いたのがたとえ事実だとしても、「コントロールする力」を行使すべき立場の者が不能に

陥っていたこと、もしくは不作為を犯したこと、それ自体が問題なのだ。

 80年代バブルの沸騰も、筆者に言わせれば、偏にあくまで時の通産省に責任がある。

「緊急経済対策が決定されると、その内容には6兆円規模の真水の財政措置が含まれて

いた。……大蔵省は大臣官房、主計局を筆頭に全省あげて阻止を図ったが、田村元通産

大臣を陣頭に立てた通産省がこれを押し切った。……バブルの引き金は、かくして引かれた。

ガイアツに屈し、財政の苦しさから金融政策にツケをまわしつづけてマネー・サプライを

増加させた大蔵省の責任の上に、通産省の手柄ほしさの緊急経済対策による6兆円の

財政支出が火をつけて、バブルは起きたのである」。

 この精神性、必ずや太平洋戦争を想起させずにはいない。

 

 その上でなお本書に参照に値するものがあるとすればそれは、「税金について知るのは、

国民の“義務”である」との筆者のその言にある。

 もちろんこのことばを無効化するような最高裁の判例が横たわるには違いない。何せ

やつらに言わせれば「源泉徴収義務者が間に入る場合、国と納税義務者(税を実際に

負担する担税者)との間には、直接の法律関係は存在しない」以上、「源泉徴収の課税

法律関係で何らかの紛争が生じたとしても、国との間では法律上の関係はないのである

から、納税義務者(担税者)は国を相手に訴えを提起することはできない」のだから。

 いくら知ったところで現状、源泉徴収をめぐり国に何か異議申し立てをすることは

できない。法改正や判例変更の望みも薄い。

 しかしそんな政府、三権を支持しているのは事実、国民なのだ。

 

 誰かのせいということは自分のせいではないというに等しい、みんなのせいということは

誰のせいでもないというに等しい、そんな危うい論法の上に立ちながら。

「読者にまず知ってほしいのは、真の起源は国民の無関心の中にある、ということである。

したがって、タックス・イーターの問題を解決するためには、その悪事を知るだけでは

足りない。納税者の『義務』として、国民一人ひとりが、日本の税制と財政の理解に

努めなくてはならないのである」。

野良犬

  • 2018.04.09 Monday
  • 23:28

「アフリカを席巻するジハーディストの暴力は、今日の世界や歴史がはらむ問題が、

辺境で表面化したわかりやすい実例である。欧米主導の世界とイスラーム世界の対立、

グローバリゼーションがもたらす富の偏在化と格差、環境問題など、さまざまな問題が、

ジハーディストの暴力の『養分』となっている。

 アフリカの紛争や戦争、暴力は、ほかの世界から切り離されて単体でそこに存在して

いたものではない。ましてやアフリカ人が暴力的だから起きているわけでは決してない。

今日と世界と世界の歴史と無関係どころか、その矛盾の発露だと言っていい。そして、

その『世界』には当然、日本も含まれているのである」。

 

 本書が明らかにするのは、ある面、「文明の衝突」ですらないむき出しの真実、

つまりは経済、格差の問題。

 当時無職にあったあるケニア人男性は、戦闘員募集に応じ訓練の後、ソマリアに

投入されるも敗走を余儀なくされた。「軍側は当初、月額600ドル(約72000円)の

報酬を約束したが、ソマリアで戦闘に従事した約7か月間に支払われたのは計28000

ケニア・シリング(約3万円)だけだった」。ところで同時期、国内では軍隊経験者の

リクルート市場が活発化していた。「紹介者に5万シリング(約5万円)、戦闘経験の

豊富な参加者には月額20万シリング(約20万円)を保証、ケニア軍の給与未払いに

不満を抱く多くの若者を引きつけ」ていた。昨日の友は今日の仇、雇い主は敵陣営の

ジハーディスト、アルシャバブだった。

 自分をより高く買ってくれる同業他社の誘いに乗る。健全な転職活動の風景だ。

 

 先に引いたボコ・ハラムは、いつしかアルカイダに背を向けてISへの接近を強めた。

自爆テロや面的支配といった戦術的な類似性だけでこの転向の説明はつかない。

何せ「ISは今や世界一裕福なテロ組織。一方、ボコ・ハラムなど多くの過激派は資金や

物資を必要としている」。

 ここでもまた、需要と供給の幸福なマッチングが見られる。商業の基本だ。

 

 チャド湖という、20世紀後半に急激な縮小に襲われた湖がある。降水量の減少など、

気候変動によるものと推察される。漁業、農業をはじめ、沿岸の産業に深い傷を与えた。

アフリカ一の産油国のナイジェリアにあっても、北東部のこの地域は恩恵をほとんど

享受できないまま、今日に至っている。そんな住人にボコ・ハラムが雇用のパイを

差し出せば、彼らは当然飛びつくだろう、否、飛びつくしかない。米軍兵の供給地が

地場産業の崩壊した貧困エリアに集中する現象と別段変わるところはない。

 

「辺境」のせいか、いちいちが多少誇張したかたちで現れているだけ。

 宗教も民族もネポティズムも何もなく、地球上のいずことも特に違えるところはなく、

すべてが至極分かりやすい経済活動として推移していく。狂信性の成れの果てとして

ではなく、合理的な選択の帰結としてのテロリズム、だからこそ出口が見えない。

「貧困がテロにつながり、テロがさらに貧困を促進する」。

 行き着く先にさらなる貧困や外部性の待ち受けるジハーディストの暴力連鎖とて、

戦争経済学に予め織り込まれた実践例の域を何ら出るものではない。

「おれたちはモンスターじゃない」。

 ナイロビのスーパーで銃を乱射した男が襲撃に際して漏らしたことばだという。