三方一両損

  • 2017.09.06 Wednesday
  • 21:37

 概説書って難しい。

 本書を読んでつくづく思う。

 

「一般化して言うと、映画に託されてきた夢は大きく三つに分類できるのでは

ないでしょうか。つくる人の夢、上映する人の夢、そして観る人の夢に、です。

……その上で、あえて思い切った言い方をしたいのですが、ハリウッド映画を

取り巻く、それら三つの夢は、十分に大きな視座から眺めるとき、どうもある定着した

型を時代、時代にもっていたと言えるのではないだろうか、と問いを立ててみようと

いうのが僕の考えた作戦の大本です。……そして、それらの夢は、反発したり

共振したりしながら溶け合い、次第に作品を象る大きな型みたいなものを形成する

ようになっていったと言えるのではないだろうか、だからこそ、ハリウッド映画という

巨大な視覚文化は成り立ちえたのではないだろうか、そう議論の道筋をつけて

おきたいというわけです」。

 

 本書内ではわずか数行で処理されてしまうような固有名詞ひとつだけで、一冊の

本が優に書けてしまう。映画撮影の文法、技術の変遷などを取ってもまた然り。

法律や経済といった社会事情と映画業界の絡みにしてもやはり同じ。

 あれもこれも、と多方面に手を伸ばす総花的なテキストが、情報カスケードを

起こした末、さしたる内容を伝えないまま終わる、そんなサンプルのような一冊。

 取り上げられる人名、映画タイトルの重要性が半ば自明のものとして話が進む結果、

逆になぜそうした定説が自明化していったのか、という疑問ばかりを膨張させ続ける、

まるで余白だらけの歴史教科書を読まされたときのように。

 映画紹介というには簡潔に過ぎて、本書に刺激されて観賞意欲を起こす読者が

そういるようには思えない。映画史的にターニング・ポイントなので踏まえておかねば

いけない一本、と説得しようにもいかんせん議論が物足りない。

 2001年の旧版にリライトをかけたというわりに、映画からテレビドラマ、ネットドラマへの

人材や投資の流出といった現代ハリウッドを特徴づける事象は一切言及されない。

あるいは、世界的にも異質なまでにガラパゴス化した日本のコンテンツ消費者なんて

話題にも波及することはない。

 

 すべてにおいて議論というには程遠いまま、ただトピックがさらさらと上滑りしていく、

残念ながら、そんな一冊。

「想像の読者共同体」

  • 2017.08.09 Wednesday
  • 21:59

「かつて、『生き方』『読書』『社会批判』を主題とした人生雑誌は、なぜ読まれていたのか。

学歴や知識層とは縁がなかった読者たちは、なぜ、教養主義の香りを帯びたこれらの

雑誌を手にしたのか。彼らの営みは、大学エリートたちの教養主義に対し、いかなる

親和性や差異を有していたのか。そして人生雑誌はいつ、どのような過程を経て衰退し、

『実利』を扱うものへと取って代わられることになったのか。……人生雑誌の主たる

読者層は、集団就職をしたような勤労青年たちであった。彼らについては、主に戦後の

格差や労働の問題として論じられることが多い。だが、少なからぬ彼らが手にした

人生雑誌の歴史を眺めてみると、それにとどまらない勤労青年像が浮かび上がる」。

 

 NHKの名物プログラム『青年の主張』の終焉は、「青年」がもはやいなくなったから。

『葦』や『人生手帖』の行路はまるで、佐藤卓己『青年の主張 まなざしのメディア史』の

議論をはるか先取りするように。

 

 かつて、社会に出るの対義語は学校に入る、という時代があった。

 義務教育を終えれば、即座に就職や家業へと動員される。雇用環境は当然に劣悪、

そんな彼らには「勉学の空間が職場の労苦を忘れさせ、『憩いの場』と」映った。

そして同時に、各種不条理の共有は「人生雑誌」の結束、「想像の読者共同体」を

生み出す種ともなった。

 なるほど、知識への憧れはある、さりとて知識人は気に食わない。それはひとつには

職場と同じヒエラルキーを想起させずにはいないから。かくして、彼らの「反知性主義的

知性主義」の姿勢が立ち上がる。

 

 ところが、経済が上向くにつれて、労働環境や所得、あるいは高等教育進学率は

改善を見せ、そうなれば「マルクスみかん水」はどうにも求心力を失わざるを得ない。

 そしてその果て、「人生雑誌」はついに「健康」へと舵を切る。

 

 そんな過去の先に立つ現代日本について思う。

 もはや経済成長は見込めない、所得は伸びない、社会保障は膨張する、どころか

人口減とグローバル化に基づく縮小局面に間もなく突入するだろう。

 失われたx年を果てなく更新する中で、社会に出るの対義語は引きこもる、と化した。

 このシチュエーションで「想像の読者共同体」を構成するのは例えばコミケ、同人誌、

萌えに包まれた幸福なコミュニティはしかし、傍からは今なお、時に凶悪犯罪予備軍で

あるかのような無理解の視線を浴びる。

 社会の閉塞の中で、理想像も何もなく、敵の敵は味方、という回路でしかもはや

「想像の共同体」を調達できない以上、現代型「反知性主義的知性主義」はネットで

真実を知りました系の排他性、攻撃性に終始する他ない。この暴力思考のインフレを

食い止めるロジックを持たないのは、つまり事実上「共同体」を編成しようがないのは、

世界中いずこも同じ。

 こんなものならばセカイ系、「想像」はそもそも「想像」を越えず、従って「共同体」など

成り立ち得ない、この図式の方がどれほどまでに幸福か。

 

 人間はか弱き葦に過ぎない、ただしその葦は考える葦である。

 貧すれば鈍するのか、鈍すれば貧するのか。

 考えることをやめてしまった、そしてわびしき世界の中で。

公共空間

  • 2017.07.21 Friday
  • 21:54

 老若男女がゆったりとした時間を過ごす。

 ショッピングモールでは顧客がそれぞれセグメント単位で事実上、分離されている。

美容院や病院は層が偏る。スーパーやコンビニはあまりにせわしない。保護者を除けば、

公園で幼児が戯れる様子を見ているおとなは今や不審者扱い。

 となると、そんな空間って、確かに図書館や本屋の他には案外ないのかもしれない。

 他人のスマホやタブレットを覗くのはただの不躾、翻って、すれ違いざまに手にした

本のカバーを互いにチラ見することで、ささやかな交流が生まれる。

 IT時代に託されたテキストの機能は、そんなかすがいにこそあるのかもしれない。

 

「あなたが『図書館』についてお考えになるとき、延々と続く書架や埃のつもった棚、

来館者を睨むようにじっと見つめる意地悪そうなオールドミスの図書館員をすぐに

連想なさるのはよく分かっています。ですがほとんどの図書館にとって、それは風説に

過ぎません。……本日私がお話ししたいのは、同じ呼び方こそされていますが中身は

まったく違う図書館、規則重視の保存図書館とは似て非なるもの、つまり、サービスも

目的もまったく異なる公共図書館のことです」。

 筆者によれば、「図書館」は二種類に大別される。

 つまり、「読書のための公共図書館」と「保存のための図書館」。

 そして、本書が迫るのはもっぱら前者、公共空間としての「図書館」づくりの模索。

 

 メディアからコミュニケーションへ。

 およそ情報がデジタルデータで一元的に組織化されていく世相の中で、これからの

図書館に求められる機能といえば、「図書」のある前に「館」であること、場であること、

身体を帯びたノマドではあれない人間の人間たる所以を表現することなのかもしれない。

 そんなパラダイムシフトは、図書館設計への提言に具体化される。

「人々が一緒にいられるように空間を使い、蔵書スペースは今よりも少なくする」。

「オープンスペースを増やす。禁止事項を作ったり、空間を分断しないようにする」。

 その世界観においては、多様な人が交わる「公共」の場であることが、「保存のための

図書館」であることよりも優先される。

 確かに本末転倒の事態とも見えるかもしれない。

 しかし、動員をかけられなければ、そもそもの「保存」すらも意味をなさない。

 いくらご立派な理想を並べ立てたところで、ドキドキしないところに人はそうそう

集まらない、そのことはおとなも子どももみな同じ。動物を駆り立てるのはただひとつ、

快感原則のインセンティヴだけ。

 そうしてひとつに集まることで何かが変わる、のかもしれない。

 

Nati per Leggere(読むために生まれた)」。

「公共性」ゆえに成り立つ「図書館」が再帰的に「公共性」を醸成する。

 もはや修正不能としか見えない世界の中で、そんなことをあえて試みる。

「社史という日本の文化を支えます。」

  • 2017.07.14 Friday
  • 22:09

 社史、ビジネス書でも、叩き上げ社長の一代記でもなく、社史。

 

「社史という本をご存知でしょうか。会社の歴史をまとめた『○○株式会社50年史』の

ような本です。書店では売っていません。普通の公共図書館でもそれほど所蔵して

いません。みなさんが社史を目にするとしたら、自分が働いている会社の社史や、

得意先の社史くらいではないでしょうか。……この社史をコレクションしているのが、

神奈川県立川崎図書館です。4階の社史室に行くと、多くの社史が並んでいます。

2016年の時点で約18000冊を所蔵し、全国屈指のコレクションとして知られています」。

 

「情報は発信するところに集まってくる」。

 筆者はかつて社史をテーマに東洋経済オンラインや神奈川新聞に連載を持っていたという

(そしてその記事の一部は本書でもそのまま引用されている)。タモリ倶楽部でも

取り上げられたことがあるという。

 そして本拠の図書館でも講演やフェアを展開してみたり、と外部への働きかけを

積極的に実行しているのだが、その姿を覗いてみると少なからぬ違和感に苛まれる。

「社史ができるまで講演会」を当初は土曜日に開いてみるも、客足は芳しくない。

ところが平日にずらしてみると応募は定員を越える。つまり聴衆は仕事の一環として

その場に集まっているらしい。

「初期の頃は、社史の編纂に関わっている方が半分くらい、その企業や業界、経営史

などに関心がある方が4分の1くらい、なんとなく面白そうだから参加してみようという

方が4分の1くらい」、そして回を重ね、認知度も上がるほどに、むしろ一般参加者よりも

編纂に携わる者の比率が伸びていく。

 平時のコーナー来訪者についても似たようなものだという。

 他社の社史に用事があるのはもっぱら社史を書こうとしている人間、大胆に言い換えれば、

社史を書くのは社史を書くため、なんだろう、この面倒くさい自己参照構造。

 

 一般書籍に比べればコストを度外視して作られている点などもあって、本書を読めば

社史というジャンルに興味が芽生えてはくるだろう。

 そして間もなく気づかされる、入手が困難なのだ。

 これでは読書の分野としては定着しづらい。

 なるほど、社史のための社史になるわけだ。

 

 とはいえ、それでもなお「蒔かぬ種は生えぬ」。

 日本の風土に根差した麗しき様式美の世界を覗き見させてくれる一冊。

「經」と「傳」

  • 2017.06.12 Monday
  • 21:35

 記録と記憶のあいだで。

 坂部恵『かたり』を想起する。

 

「歴史考証をしてみると、大方の人が思うよりもノンフィクションは『若い』。せいぜい

1970年代にまでしか遡れない概念である。それ以前の作品を『ノンフィクション』に

区分するのは後世からの再配置である。……この議論ではルポルタージュと呼ばれて

いた作品がどうしてノンフィクションと呼ばれるようになったのかが論点となる。……

そして、こうしたノンフィクションという概念の生成構築過程をたどるときにも利用するが、

本書が採用するもうひとつのアプローチ方法が物語分析論の利用である。……

ノンフィクションの成立とはジャーナリズムが単独で成立するひとつの作品としての骨格を

備えたこと、その骨格を形成するものとして出来事の発生から帰結までを示す物語の

文体を持ったことだと考えられる。だからこそ物語論の分析方法がノンフィクションに

関する議論に応用できるのではないか。それならば、ジャーナリズムはいつ、どのような

かたちで物語の文体を持つようになったのか」。

 

「本書ではノンフィクションとフィクションの境界を決定するような……本質主義的な

アプローチをしない」と宣誓しつつも、議論はどうにもその「境界」――それは例えば

ルポルタージュとの「境界」なども含めて――をめぐる自己定義の変遷に終始していく。

「若い」とはしつつも、この語自体の歴史はおよそ100年を遡る、つまり、「小説以外の

全ての表現物を指す」ための「出版業界用語」として。

 大宅壮一やテレビ、雑誌の台頭を経つつ、やがて「ノンフィクション」のひとまずの

「境界」を与える「ニュージャーナリズム」の巨人が舞い降りる。沢木耕太郎。

 このムーブメントを特徴づけるのが「三人称」という方法。「ニュージャーナリズムは

膨大な取材の賜物だ。書き手たちは獲得した情報を精査・総合して『その時に何が

どのように起きていたか』を正確に描き出せるまでに持ってゆく。そうした作業が背景に

あってこそ、小説のような三人称の物語を書ける」。ただし、その臨場感の代償として

「出典情報は場合によって確信犯的に消され、何もかもが行間の闇の中に消えて」いく。

「三人称」文体を踏まえた上での一人称回帰、「私ノンフィクション」への傾倒はしばしば

この検証可能性の「闇」をますます深めてしまう。

 

 ただし、「境界」の曖昧さに振り回されたテキストとの印象もどこか消えない。

 アフター・ノンフィクションの反転現象として、『なんとなく、クリスタル』やケータイ小説を

例に、「フィクションの側がさまざまな迂回路を利用しつつ現実を巧みに描き出」す

サンプルを取り上げるが、巧拙はともかくとして、これがジャンルの確立後に固有の

何かであるようには思えない。例えばクエンティン・スキナーは古典を同時代の現実の

反照物として読み解くアプローチを説いたが、その観察と何が違うのだろうか。

 宮台真司に典型的な「アカデミック・ジャーナリズム」にしても、人類学や民俗学の

方法論と別段異なるものではない。定量的な分析を織り込む仕方とて、社会学の開拓者

E.デュルケームがとうの昔にやっていること。

 

 メディア史として見れば面白いテキスト。事実は真実の敵、ポスト・トゥルースの時流に

沿ったテーマにも違いない。

 しかし、およそ物を語るという行為一般、コミュニケーション全般との比較の中で、

ではノンフィクションに特有の葛藤がどこかにあったのだろうか。

 それは時に見えない敵と格闘する空転劇を眺めているようで、「ノンフィクション」という

枠の自網自縛に終始してしまった感がどうにも否めない。