#Me Too

  • 2017.12.26 Tuesday
  • 22:13
評価:
伊藤 詩織
文藝春秋
¥ 1,512
(2017-10-18)

 国連薬物犯罪事務所のまとめたデータによれば、人口10万人当たりのレイプ件数で

最も多いのはスウェーデンで58.5件、イギリスで36.4件、アメリカで35.9件。

 対して日本といえばわずかに1.1件。

 一方、内閣府による「男女間における暴力」に関する調査によれば、15人に1人の女性が

「異性から無理やり性交された」経験を持つ。

 警察の担当者は、筆者に向けてこう言った。

「よくある話だし、事件として捜査するのは難しいですよ」。

 

「性暴力は、誰にも経験して欲しくない恐怖と痛みを人にもたらす。そしてそれは長い間、

その人を苦しめる。/なぜ、私がレイプされたのか? そこに明確な答えはない。私は何度も

自分を責めた。……しかし、その経験は無駄ではなかったと思いたい。私も、自分の身に

起きて初めて、この苦しみを知ったのだ。この想像もしていなかった出来事に対し、どう対処

すればいいのか、最初はまったくわからなかった。/しかし、今なら何が必要なのかわかる。

そしてこれを実現するには、性暴力に関する社会的、法的システムを、同時に変えなければ

いけない。そのためにまず第一に、被害についてオープンに話せる社会にしたい。私自身の

ため、そして大好きな妹や友人、将来の子ども、そのほか顔も名前も知らない大勢の人たちの

ために。/私自身が恥や怒りを持っていたら、何も変えることはできないだろう。だから、

この本には率直に、何を考え、何を変えなければならないかを、書き記したいと思う」。

 

 強姦の立件で争点となるのは主に二点だという。すなわち、行為の有無、合意の有無。

論点となるのは、殺人や窃盗におけるように、構成要件をなす外形的な要素よりもむしろ、

合意のあるやなしや、この主観性が性犯罪を特徴づけ、そして困難なものにする。

 筆者自身も、本書内で幾度となく、客観性を担保し切れぬ当事者が世に明かすことの

正当性への煩悶を語る。その扱いの難しさは、筆者が会見を申請し、そして拒絶された

外国人記者クラブによるコメントに集約される。

Too personal, too sensitive”

 

 しかし、彼女はあえて「『被害者のAさん』ではなく、実際に名前と顔がある人間として」

公表することを選んだ。選ばざるを得なかった。

 本来において、刑事システムの運用にあたって、被害者も加害者も「名前と顔」を持つ

必要がない、と私は考えている。罪を憎んで人を憎まず、とは抽象的な格率でも何でもなく、

刑事訴訟の基本理念を体現する。つまり、罪刑法的主義に従って、構成要件を満たした

行為を犯したがゆえに罪を問われ、罰を科される。このスクリプトは例外を持つ必要がない。

法のアウトノミーに人格はいらない。

 ところが、この法体系が「ブラックボックス」を持つ。個別的な事例における忖度の有無が

重要なのではない、忖度の余地を持つ杜撰な体系しか組めていないこと、法の支配が

貫徹されていないこと、その事態こそが問題視されねばならない。社会が「名前と顔」で

営まれている以上、対峙する者もまた、「名前と顔」を持たずにはあれない。

 当事者が声を挙げずとも、可視性を担保された刑事司法が適用される、そんな時代の

到来は遠い。筆者が訴えるのは加害者の前に、この社会の露わなファクトだった。

 

 #Me Too

 きっかけはハリウッドにおけるセクハラ案件、今日もSNS上で「名前と顔がある人間として」

女性たちが告発する、 “too personal, too sensitive”であることの痛みを背負いながら。

 meからusへ、本書が願うのはたぶん、publicであれる未来だ。

感情教育

  • 2017.12.17 Sunday
  • 21:53

「みなさんは『性を題材にした小説を書く女性』というと、どのような人物像を思い浮かべる

でしょうか。その方の容姿や生い立ちなど、あらゆる想像を膨らませてしまうのではない

でしょうか。

 かくいう私も、その一人でした。

 性というのは人間の本能であり、自分でもコントロールがきかない感情でもあります。

そんな性を題材にして小説にするからには、並大抵のパワーの持ち主ではないはず、と

興味を抱くようになりました」。

 

 本書の値打ちは、その第一部、女流作家インタビューに凝縮される。

 ある女は、「初体験の時は60万円、クンニしてもらうためには30万円を払」った。そうして

いつしか気づく。「穴さえあればセックスはできる」。

 ある女は「心に嵐を抱えて生まれた」父を持ち、溺愛を受ける一方で、「父が考える『娘』の

枠から」外れれば、DVにさらされた。それでもなお、理想のタイプは父親と言って憚らない。

 またある女は、SMクラブ勤務当時、暮らす実家の自室にコスチューム姿の写真を飾り、

「なんでやってるの?」とそれを見た母に問われ、ただ「好きだから」と答えた。

 ある女は言う。「私、女が好きなんですよ。昔は大嫌いだったんですけどね。女子校出身

なんですが、在学中には、女同士の嫉妬や意地悪、立ち位置を確保するための駆け引きに

うんざりし、男友達のほうが多かったくらい。だけど恋愛を重ねて、男がどういうものかを知り、

自分のなかにも女のドロドロしたものがあるとわかって、女が好きになりました。いまでは逆に、

好きな男以外の男は全員嫌いですね(笑)」。

 別にこれら独白のすべてを真に受けるつもりはない。けれども、そんなフェイクの小賢しい

粗探しなど凌駕してむしろ、明かされざる闇の気配がそこかしこに漂うことに戦慄する。

日々のせせこましい損得勘定に翻弄される男どもが、此岸の艱難辛苦に揉みしだかれて

突き抜けた菩薩になど太刀打ちできるはずもない。

 

「どうしても女性の『性』はないことにされるか、逆にヤリマンや娼婦として語られるなど、

両極端なんですよね」。

 ちんこはOK、まんこはNG、この境界がすべてを象徴する。女が「両極端」を克服する道は

現状、業を通じて彼岸へと至る他ないのかもしれない。

 ハーレムあり、させ子あり、そんなファンタジーの向こうにむき出しの現実感が横たわる。

I Need to Be in Love

  • 2017.12.05 Tuesday
  • 00:23

「読者は、サイレントマザーと呼ばれる母たちがいることを知っているだろうか。その多くは

シングルマザーで、貧困にあえぎながら子育てをしている。なかには過重な労働によって

健康を害し、職場も住居も転々とし、地域のなかで孤立し、そのため母子の存在を知る人も

ほとんどいないようなケースもある。母の多くは近くに頼れる親がおらず、社会支援制度も

利用せずに孤軍奮闘している。サイレントマザーは『助けて』が言えない母のことだ。……

サイレントマザーは、自身について多くを語らず、助けを求めることもしない」。

 

 ふと思い出す、是枝裕和『誰も知らない』。

 社会の最小単位は家族、本書はそんな前提が壊れてしまった人々の物語。

「サイレントマザー」の「ほとんどは自身がサイレントベビーでもあった。親や保護者による

庇護が薄い環境のなかに育ち、生き続けてもなお寂しさの連続で、それが当たり前になって

いて、だから大人になっても苦しさを訴えるすべを知らない」。

 そもそも呼びかける相手を持たないのだから、声を発する機会すら持たない、だから

彼女たちは沈黙する。選んだわけでもなく、他の選択肢をそもそも「知らない」。

 そんな彼女たちが、そして母になる。

「息子ちょー可愛いです」。

 その我が子は、あるサイレントマザーにとっては、人生の中でようやく見出した、声をかける

べき誰かなのかもしれなかった。言い換えれば、他に逃げ場のない濃密すぎる関係性。

 路上で出くわすクズを見て、死ねばいいのに、と思う、ただしまず手をかけたりはしない、

なぜならそんな行為にすら値しない存在でしかないことを知っているから。殺してはならない、

その命令を発することができるのはつまり、時に殺したいほどに愛おしい近しい存在のみ。

 そして彼女はある日、同棲相手の男とともに、息子をポリ袋に詰めて、粘着テープを

巻きつけた。袋の中の彼はやがて呼吸を失った。

「この子自身を捨てる意味のしつけだった」。

 そんな供述はネット上で手ひどいバッシングを浴びた。虚しい事件だ。でも私は思う、

「息子ちょー可愛いです」と「しつけ」は別段矛盾しない、たとえそれが死へと至ろうとも、

人間はそういう風にできている。

 

 もちろん、行政やNGOにも改善点はあるのだろう。

 でも、この本が告発するある種の救いのなさは、「サイレント」ゆえにこそ、その情報を

把捉もできなければ、リアクションへの期待も限定的にならざるを得ない、という点にある。

重大事に至ってはじめて「サイレント」であったことが知られる。

 そもそも他人を信頼することを知らない人に、社会政策に身を委ねよ、と訴えたところで

まさか実行を期待できるはずもない。「男性の貧困はホームレスとして路上に表れるが、

女性の貧困は待機部屋に表れる」、むき出しの性欲の慰みものにされた経験があればなおさらだ。

 さらに現代社会の病理もこうした不信を後押しする。声をかけてくる他人は誘拐犯と思え、

例えばそう子どもに叩き込むことで瞬く間に地域社会は瓦解した。家庭や居住区域といった

セーフティネットの根幹が崩壊しているのに、今さら国家や地方自治体に何ができるというのか。

 信頼というインフラを持たない社会のひずみが「サイレントマザー」に結実する。

 愛し方を「知らない」、愛され方を「知らない」。別にこれは抽象的な感情の問題ではない。

いみじくもこれを'Art of Loving'と看破したのはエーリッヒ・フロムだった。愛はまず何よりも

技術の問題、知識の問題だ。もし「サイレント」に突破口があるのだとすれば、それは唯一

教育の他にない。

リバー・ランズ・スルー・イット

  • 2017.11.30 Thursday
  • 22:28

「毎年どれだけの女性がレイプ被害にあっているかを断言するのは不可能だ。性的暴行の

広がりを数値で表すには、かなりの部分を推測に頼らなければならない。暴行を受けた人の

少なくとも80パーセントが当局に届け出ていないのだから。本書が目指すのは、これほど

多くのレイプ被害者が警察に行くのをためらう原因は何なのかを理解すること、そして

被害を受けた人々の観点から性的暴行の影響を認識することである。

 そのために、わたしはアメリカのあるひとつの町――モンタナ州ミズーラ――で2010年から

2012年に多発した性的暴行について書くことにした」。

 

 被害者の真の敵は、法廷で対峙する被告人だけではなく、むしろあまたの「レイプ神話」

だったのかもしれない。

 ミズーラの法廷で、レイプ研究の権威は「教育的証言」を求められてこう応じた。

「『レイピスト』という言葉を聞くと、多くの人は『スキーマスクをかぶり、ナイフを振りかざし、

茂みに隠れ、家に押し入る男を思い浮かべます。それはぞっとするイメージですし、実際に

そういうことは起きていますが、……レイプの圧倒的多数、優に80パーセント以上が、実は

顔見知りによる犯行なのです』」。

 この博士は同時にもうひとつの神話を明らかにした。

「顔見知りによる暴行はそれほど深刻ではなく、それほど深刻な被害はない」と考えられて

いるが、「研究によれば、顔見知りによる暴行の被害者は、見知らぬ人による暴行の被害者と

同等に影響を受けています」。

 被害は単に身体的な外傷や性病、妊娠リスクに限らない。証言台で被害者はレイプにより

自らが失ったものを訴えかけた。「わたしは、審査会に行って、毎日感じる苦しみを軽くして

くださいと頼んだりはしません。フラッシュバックや、悪夢や、不安を消し去ってくださいとも。

安全と安心の感覚とか、人への信頼感を取り戻させてくださいとも。無邪気な気持ちや

喜びとか、彼に吸い取られた人生を返してくださいと頼んだりもしません」。あるセラピストは

PTSD発症におけるレイプと戦争の類似性を指摘する。この刻印において、ストレンジャーと

知人の性的暴行を隔てるものは何もない。

 

 先の研究者による男子大学生を対象にした調査によれば、そのうちの6.4パーセントが

レイピストと認定され、しかもそのうちの6割は常習犯だった。これだけでもショッキングだが、

ヒアリングはさらなる驚愕の事実を用意していた。

 統計に表れない彼ら隠れレイピストの大多数はその自己認識すらも欠いていたのだ。

 知人を酒やドラッグで酩酊させて連れ込んで性交渉に及び、ただし彼らは自ら思い描く

「レイプ神話」の外側にいた。彼らにとって無抵抗はすなわち容認の証だった。その後に

被害者に続くトラウマとの闘いなど、まさか知る由もない。

 そして一方、彼女たちはしばしば詐病、虚言を疑われ、セカンドレイプの渦中に置かれる。

 

 ミズーラの法廷は、もうひとつの狂気を伝える。

 本書が中心的に描き出すとある訴訟で被告人の弁護を担ったのは、その少し前まで

主席検事補として郡の性的暴行案件を仕切っていたいわゆるヤメ検だった。つまり彼女は、

刑事裁判において検察側の挙証に要求される「合理的な疑いを差し挟む余地がない」

基準の厳しさを誰よりも知り尽くしていた。

「弁護人の仕事とは――特に、罪を犯した者を弁護する際――あらゆる合法的な手段を

用いて、『すべての真実』が明らかにならないようにすることなのである」。

 果たして弁護人は無罪を勝ち取る。

 後日談がある。それから間もなく彼女はミズーラ郡の検事選に立候補したのだ。

 このキャンペーンの中で、彼女は自らをこう売り込んだ。

「犯罪被害者は、自分に落ち度がないにもかかわらず、裁判手続きを余儀なくされる。

思いやりとは、家族に接するときのように被害者と接するということであり、われわれは

客観性を失うことなく、被害者のトラウマや恐怖心に誠実に向き合いながら、刑事司法

制度の水先案内人とならなければいけない」。

 そして彼女は当選した。

 

 ぶっちゃけ、ヤレる。

 もしかしたら、かくいう私もデート・レイプの加害者に回っていたのかもしれない。

 その女性の身を守ったのは、単に「カノジョ面されてもかなわんし」という私の利己心だった。

タッチ

  • 2017.07.31 Monday
  • 21:42

『ドラゴンボール』を読んでもブルマの由来が分からない子が当たり前。そんな時代か。

 

「本書の目的は、なぜ、どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに、

存続だけはされ、もはやどうして継続しているのか誰もわからないといった現象を取り上げ、

その全体像を詳細に検討することで、学校を舞台とした民主化と戦前的心情の交錯と

ねじれの諸相と、学校的力学を支えるエネルギーの源泉を明らかにすることである。

 具体例として取り上げるのは、密着型ブルマー(通称・ぴったりブルマー)の学校への

浸透と継続である。東京オリンピック憧れ説など種々の風説が流通しているものの、

いずれも根拠が乏しかったり、誤解に基づくものだったりして、実のところどうだったのかに

ついては学校教員でさえはっきり説明できる人はほとんどいないし、文献にもほとんど

記載されていない。そうでありながら、導入当初から時々聞かれていた羞恥心や不満の

声は無視され、抑圧されて、およそ30年にもわたって学校での女子体操着の主流として

継続してきたのである。『どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに

継続だけはされ、もはやどうして継続しているのか誰もわからない』現象として、密着型

ブルマーほどふさわしいものはないだろう」。

 

 公立学校への体操着の納入という典型的な公共事業の一様式について。

 1960年代において、いわゆるちょうちんブルマーに変わって勢力を急伸させた密着型、

そこには当然に種々のおとなの事情が絡まずにはいない。

 さりとて、いかに中体連の錦の御旗があろうとも、「文化的素地」がないことには、

下半身のラインの露出が受け入れられるはずもない。そこには東京オリンピックという

肉体の発見があり、あるいは戦前よりの見えてもいい下着としてのブルマーの伝統がある。

 そしていつしか、セクハラやブルセラといった世相の変化の中で、消滅を辿る。

 

 あだち充『タッチ』、筆者によれば「南のブルマー姿はコミック全巻を通して、ほんの

一コマが二コマ」、そんなわけないだろう、とページをめくる。

 第1巻(少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)を雑にチェックしただけで、扉絵のカットを

含め、ざっと5シーンでブルマー姿を確認できる。

 そして中学生の南(永遠の17歳)に怒られる。

「スポーツをいやらしい目でみないでよね」。

 すかさず達也(現在49歳)が言い返す。

「女らしくなったのは体だけだなァ」。

 本書の「見る−見られる」をだいたいにおいて網羅している。

「見られる」ことは分かっている。どう「見える」かも分かっている。裸を「見られる」ほどの

緊張が走るわけでもない。さりとてじっくり「見せ」たいわけでもない。

「自己の身体に美と健康と自由を見る女子の肯定的態度と、性的まなざしの対象で

あることのアンビバレンスは、『格好いい−恥ずかしい』という感情のアンビバレンスと

して表れる」。

 そしてその基底には、いみじくも制度に服するものとしての「制服」概念が横たわる。

 肉体とはすぐれて社会的産物、感情とはすぐれて社会的産物。