三位一体

  • 2018.02.15 Thursday
  • 21:56

  「漱石が熊本で死んだら熊本の漱石で、漱石が英国で死んだら英国の漱石である。

  漱石が千駄木で死ねば又千駄木の漱石で終る」。じつはこの書簡を読んだことこそが、

  本書執筆のきっかけであった。漱石は何でこんなことを書いたんだろう、と思ったので

  ある。当時は今よりずっと寿命は短く、死病も多かった。でもなぜ、東京の漱石でなく

  千駄木の漱石なのか。

   期待を担いで洋行しても、かの地で客死するものがあった。兄二人も兄嫁も親友

  たちも次々と結核で死んでいった。その中でよくここまで生き延びたもの、と思ったの

  だろうか。自分は一英語教師に過ぎぬと自覚していたら、この年の初めから『猫』が

  世に出て文名が急に上がった。どういうことだ、これは何なんだ、と漱石自身が

  とまどいつつ、これからの人生を自問自答していたのだろう。

 

 周知の通り、例のイギリス留学を経て帰国した夏目金之助は、東京帝国大学程近くに

寓居を構える。東京市本郷区駒込千駄木町57。奇しくもその物件はかつて森林太郎が

身を寄せた場所でもあった。

 間借りしていた期間は5年に満たない。とはいえ、『吾輩は猫である』も『坊っちゃん』も

『倫敦塔』も『草枕』もこの地で書かれた。後の『道草』もこの頃の体験をもとにする。

 そんな「千駄木の漱石」を、小説や書簡から辿り直す。

 

 それぞれのトピックについてダイジェストを作れば、それはそれはひどく無味乾燥な代物に

仕上がることだろう。新たなる文献を掘り出したわけでもなく、基本的に本書がやっている

ことといえば、既存の各種資料を切り貼りだけ、のはずなのだ。

 ところが、なぜかそうはならない。

 例えば写真という営みが、フレームに収められた被写体をめぐる作業であるかに思わせて、

視線がいつしか反転し、カメラを構える撮影者をめぐる作業へと書き換えられていくように、

本書もまた、見つめられる漱石や千駄木を超えて、漱石を見つめる筆者自身へと主題が

はたと更新されている。『「青鞜」の冒険』のようにあからさまに筆者が顔を覗かせるでもない、

新奇な文体実験を狙う野心がほとばしるでもない、それでいて、読む‐読まれる、の共犯性に

ざわめく独特の境地を形づくる。

 漱石と、筆者と、読者の三角関係。

 思えば、『行人』、『こころ』、『門』……と、トライアングルは漱石の十八番でもあった。

 国民作家の磁場がもたらす必然か、巧まざる巧みにふと愕然とする。

ディープインパクト

  • 2018.02.10 Saturday
  • 21:48

「世界を襲った大洪水は、本当にあったのだろうか。いつ起こり、何が原因だったのだろうか。

語り継がれてきた神話に太古の史実を読み取ろうとする者たちだけでなく、洪水の痕跡を

分析する諸分野の科学者たちを巻き込んだ議論が、特に近年、活況を呈している。実際に

あった局地的洪水、たとえば河川の氾濫のみならず、津波などの記憶が洪水神話のもとに

あるとする古くからの合理的解釈に加えて、1万年以上前、氷河期(最終氷期)の終わりに

伴って融けた氷河の水が海に流れ込んだことが、『世界的な海面上昇=陸地が陥没する

洪水神話』につながったとする解釈も現れ、検証が進んでいる。さらには、彗星や小惑星が

海に衝突して生じた巨大な津波が陸地を襲ったことが洪水神話を生みだしたという説が、

科学者たちによって主張されるようになっているのだ。かつて本当にあったかもしれない

地球の破局の記録として、洪水神話に関心が寄せられているのである。……本書は、

こうした状況の今こそ、文系と理系や、研究者と一般社会の垣根を越えつつ、宗教と

科学、過去と現在・未来とを結びつけ、多くの読者の興味を喚起しうる知的探求として

構想されたものである。洪水神話と、その解釈の諸説とを整理し、検証を試みながら、

大洪水があったか、なかったかという議論だけにとどまらずに、洪水神話がどうやって

生み出されたのか、さらにはどのような意味を帯びて語られ続けていくかといったところ

までも考察を進めていきたい。それは、神話を語る人間と、その人間が暮らし続ける地球に

ついて理解を深めようという試みなのである」。

 

 洪水神話、そう聞けば誰しもがまずは「ノアの箱舟」を想像するだろう。

 確かに、世界にはキリスト教や聖書の影響下で記憶を書き換えられてしまったに違いない

神話も数多存在する。

 だがそれにしても、あまりに目につく。

 なにせ表面積の約7割が水に覆われた惑星に住まう以上、水難被害は避けられない。

普通に考えれば、各地域を襲った洪水の記憶が土着神話に刻印されているのだろう。

 しかし、世の中には、共同体に遍くこれらの洪水神話すべてを束ねる一回性の大洪水が

地球全土を襲った、そんな説を展開する者もいる。

 本書の筆致はシリアスそのもの、紹介される研究とてその大半は実証性溢れる議論、

しかし時にオカルトの匂いを期せずして放つ。

 地層などに刻まれた断片を手がかりに、全体像の修復にかかる。その欠落を埋めるのは

昔も今も想像力の他にない。そしてその証言として、時に神話が持ち出される。

 

 洪水をテーマに地学をかいつまんだテキストとしては、高密度にまとまってはいる。

ただし、良くも悪くもその裏返しとして、豊富な参考文献の切り貼りに終始しただけの

一冊という印象もどこか拭えない。

 そして、その過程で置き去りにされてしまったとしか思えない重要なファクターがある。

「洪水神話」である。

 神話は神話、独自の論理体系下で読み解けばいい、そうした観点が捨象されて専ら

科学を補足するための狂言回しの猿として呼び出されているがために、神話それ自体が

主題化されぬまま閉じてしまっているような感が否めない。

 あるいはそれは実学との接合という強迫観念のせいなのかもしれない。

 結果として、洪水をめぐる地球史としてはともかくも、神話を語り、洪水に服した人類の

「精神史」としては不発に終わっている気がしてならない。

とめはねっ!

  • 2018.01.24 Wednesday
  • 21:59

「漢字には、本来、正しい漢字と間違った漢字がある。そういう漢字を巡る思い込みが

世上に広まっている。そしてその『正しい漢字』を選び、使うことで試験でよい点数を

得られる。そういう風潮が世を覆っている。正しい漢字とは何か? 『本来』という語が

持ち出されることが多いが、それは多くの場合、字の歴史上の任意の一点にすぎない。

また、それが古代である場合には、たいてい現代にそのままの形では当てはめがたい

ものとなる。そしてそれは、調査を通じて突き詰めていけばどこかで誰かが決めたものに

すぎないことがうかがえる。それは学者かもしれないし、政府かもしれない、いや名もない

市井の誰かかもしれない。そういうあやふやな出所を持つ漢字にとっての正しさは、

ほとんどの場合、それぞれの時空において相対的なものにすぎない」。

 

 例えば「筰」なる漢字がある。そもそも中国では、「舟を引くときなどに用いる竹製の

網を指すくらいの意味しかもたない、用途の狭い字だった」。日本においても、過去に

広く普及していたわけでもなく、現代に至っては昭和の名作曲家、山田耕「筰」の他に

ほぼ用例を見ないだろう。そもそも彼の旧名は山田耕作、竹かんむりはなかった。

『康煕字典』にあたり自ら掘り出したのだ、という。そんなレアな字がPCやスマホで

「やまだこうさく」から一発変換できるのも、あるいはディスプレイに表示されるのも、

もとをただせば、JIS漢字に登録されているから。

 もっとも、その認定は「赤とんぼ」や「待ちぼうけ」の名声に由来するものではない。

「椪」「鮴」「嫐」……「筰」に限らず、これらの漢字がJISに組み入れられているのには、

実はある共通のソースがあった。

 

 洋の東西を問わず、とかく標準語的なものの導入には、上意下達を効率的に

推し進めるための官僚機構的な便益が横たわる。

 漢字におけるいわゆる誤字なる発想は、その最たるものなのかもしれない。

 果たして古代中国の難関試験、科挙においてもその「正しさ」は突き詰められる。

とはいえ逆説的にも、その実施の歴史は「正しさ」の揺らぎを反映せずにはいない。

 

 些末なチェックに目を光らせる光景はなるほど不毛かもしれないが、本書を片手に

生徒が漢字テストの是非を教員にねじ込む、そんな光景もまた不毛。

 そんなエネルギーがあるのなら、自らの知性を伸ばすことに仕向けた方がいい。

 気になったら調べてみればいい。漢字でそれを実践すると本書ができる。

想像の共同体

  • 2017.10.22 Sunday
  • 19:30

「国家や社会や状況の判断によって導き出す理解ではなく、自分の身を賭して

共感する人間性こそは、最強の理解となる。……文学という虚構のシステムこそは

この受け皿と成り得るのだ。文学と戦争は抜き差しならないほどの共犯関係を

結んでいる。しかし、それを打ち破っていく可能性も文学にはあるのだ。……〔本書が

取り上げる〕文学的文章に共通するのは、直線的な戦争批判だけではない点だ。

戦争を否定することによって欲望する平和は、時にはその戦争を生み出す原因へと

変貌を遂げてしまうかもしれない。自らが立つ場所への根本的な疑義、あるいは自ら

自身に内在化された『国民化』への疑惑なくして、恒常的に戦争を再生産するこの

システムには対抗できない。その作品一つ一つに描かれた人間という存在への懐疑を

手がかりに、戦争と文学の関係を想像力をよりどころとして再構築したいというのが、

本書を出す最大の理由である。その文学的想像力こそが、今ある思索の困難を照らし

出していくことになるであろう」。

 

 なるほど、「小説案内」としてはあまりに主観性が強すぎる。そうした批判があったとして、

一定の理があることは認められよう。

 しかし、まさにその事態こそが、「戦争をよむ」意義を何よりも雄弁に証する。

 そもそもライティングの機能とは、「想像」のはたらきに従って、描かれているできごとを

わがこととして引き受けさせることにこそある。いみじくもベネディクト・アンダーソンは、

近代型ナショナリズムを指して「想像の共同体」と名指した。そもそも学校で歴史を学ぶ

理由とて、国家を基礎づける「想像」の共有を涵養することに他ならない。ゆえにこそ、

過去の再生産を促す土台として、「想像」は時に戦争装置にもなれるし、あるいは時に

過去の再生産を拒む土台として、「想像」は異なる未来を選び取る装置にもなれる。

 主観的であることは、他者との共感を排除するものではない。

「戦争をよむ」とはすなわち、自らの「想像」を、自らの身体を動員する行為に他ならない。

 だから筆者は己をむき出す。

 

 ボリス・シリュルニクのテキスト『憎むのでもなく、許すのでもなく』に寄せて語る。

 シリュルニクは1937年のフランスに生まれ、そして母国はまもなくナチスに陥落する。

かくしてポーランド系ユダヤ人の両親の間に生を享けた彼は5歳にして孤児となる。

やがて精神科医となった彼にとって、セラピーの過程は「自らのトラウマを癒していく

選択でもあった。……『ユダヤ人』であることを言ってはならないという体験は、他者との

親密な関係を持つことを阻んでいく。……シリュルニクは、自らが凍らせてしまった言葉を

柔らかに溶かしていくことの必要を主張する。そして憎むのでも、許すのでもなく、

理解することの重要性を。ホロコーストという人間の究極の憎しみの表現に出合った

シリュルニクは、憎しみの本質に対峙する勇気と、その人間が持つ善なるものへの探求が

同時に行われることは、決して不可能ではないことを明らかにしたのだ。人間は過去を

消去できない。だからこそ、その悲しみに満ちた過去と折り合い、解決への道を求めて、

理知の力をもって、前に進んでいかなければならないのだ」。

「ゆきすぎた潤色」

  • 2017.10.14 Saturday
  • 22:24

「ヨーロッパの昔話の本質的諸要因を描きだす試みがなされなければならない。

そのさい個々の民族的表現の性格を比較検討することをめざすのではなくて、

逆にそれらすべての共通な根本の形を求めなければならない。語り手から語り手へ、

また民族から民族へと伝えられるときに見うけられる個性的差異は、ここでは

われわれの興味をひかない。われわれは昔話を昔話たらしめているもの、それを

さがし求める。根本の形は実際にはけっして純粋にあらわれることはない。しかしながら

それは多くの個体の比較によって見いだされうる。共通なものはしっかり把握しなければ

ならず、偶然なもの、個体から個体へと変化していくものは除外しなければならない」。

 

 本書が指摘する昔話の特質、それは例えば「平面性」。

「昔話では日常的世界と超越的世界とのあいだに断絶が感じられないばかりではない。

そこには総じていって、またあらゆる意味で奥行きがない。そこにあらわれる登場者は

実体性のない、内面的世界をもたない、また周囲の世間というものをもたない図形

なのである」。

 昔話においては往々にして、前提としての目標が示される。ただし、なぜそれを

目指さねばならないのか、という動機づけが与えられるわけではない。達成のために

しばしば道具が登場する。まるである行為を促すかのようにその道具は横たわり、

そして見事に成就を手助けしてくれる。ただし、他にはいかなる用途も持たない道具が

なぜ主人公の目の前にあるのか、なんてことは説明されない。

 

 そもそも筆者が「昔話」の議論を展開していく上において対立概念として提示する

「伝説」との線引きがひどく曖昧な点が本書の理解を難しくする。『オデュッセイア』や

『ベオウルフ』のようなテキストベースのものを「伝説」として想定するのかと思いきや

そうでもないらしい。

 その上で、あえて口伝のものとしての「昔話」について考える。

 私が睨むに、別に「昔話」が「平面性」を帯びているわけではない。口述伝承をひたすらに

訪ねて回れば、おそらくは皆が皆、立体的な話をするだろう。ただし、地域における昔話の

収集作業においては、各々が添えた肉づけは捨象され、最大公約数的な骨子だけが残る。

その残滓をもって「平面性」を説いているに過ぎないのではあるまいか。

 語りそれ自体はおのずから立体性を孕む。ある行為の理由について、自分ならばこう、

聞き手ならばこう、そう推測して語りに落とす。それはどこか読解文の試験において、

課題のテキストを無視して、各々が勝手に自論を展開していくさまに似るのかもしれない。

 

 実は、グリム兄弟自身がこの現象を体現しているのではなかろうか。

「いばら姫」のクライマックスを彼らはこう締めた。「壁にとまっていた蠅はまた動きはじめ、

台所の火はまた燃えはじめ、炎があがってご馳走を煮はじめました。焼肉はふたたび

ブツブツと音をたてて焼けました。コックは小僧のほっぺたに一発くらわせたので、小僧は

大声でわめきました。そして下女は鶏の毛をむしり終えました」。

 対して下調べのメモにはただこうあった。

「そしてすべてのものが眠りから目ざめました」。

 

 筆者はこの演出を指して「ゆきすぎた潤色」と呼んだ。

 しかし、「ゆきすぎた潤色」こそが「昔話」を特徴づけるのではあるまいか。

 語り手と聞き手が同じ話を、同じ時間を共有する。例えば窓の外の季節を「潤色」は

織り込んでくるだろう。幼い聞き手の好みに合わせてアイテムをさし変えるだろう。

本人の機嫌ひとつで口調とて当然に違ったものとなるだろう。同じはずの「昔話」が

その都度変わる。その差異を「ゆきすぎ」と切り落とせば、ただ「平面性」が残る。

 何を語るか、を重視すれば、なるほどその特色に「平面性」を強調せざるを得ない。

ただし、「昔話」の慈しみは、誰と語るか、どう語るか、にこそあるのではないか。

 

 絵本ならばひとりでも読める。筋立ての正誤は作者が決める。

 ただし口頭伝承の「昔話」はその限りにあらず。語り手と聞き手があってはじめて

成り立つ。内容が何一つ残らなくてもそれでいい。その瞬間のコミュニケーションが

幸福であれば、そしてその幸福の記憶が残れば、それでいい。