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  • 2020.05.10 Sunday

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    Make America Great Again

    • 2020.02.08 Saturday
    • 22:39
    評価:
    スティーヴ エリクソン
    筑摩書房
    ¥ 1,540
    (2015-10-07)

     主人公ザン(アレギザンダー)は小説家、とはいっても最後の発表からは

    既に10年以上が経過している。リビングのテレビが映し出すのは、合衆国

    史上初の有色大統領の誕生。膝の上に座るのは人類のルーツ、エチオピアから

    引き受けた養女シバ、ご贔屓の白人対立候補が敗北したことにどこか不機嫌。

     ザンは記憶を呼び起こす。それは彼がまだ学生だったころのこと、

    democracydemocrazyに変わった刹那、候補者に熱狂する人ごみに

    押しつぶされかけた彼の手を黒い腕がさっと掴み、そして救い出す。

    褐色の若い女の眼差し、瞳のグレーを彼は瞬間焼きつける。

     

     政権交代を引き起こす契機となった金融崩壊は、ザンの家計にも重篤な

    影響を及ぼす。月額2800ドルの住宅ローン返済は6500ドルにまで膨らみ、

    どころか糊口をしのぐ大学非常勤講師の職すらも失うことになりそうだ。

     そんな危機を知ってか知らずか、妻ヴィヴの元恋人からイギリスの大学での

    集中講義の依頼が届く。主題は「衰退に直面する文学形式としての小説」。

    報酬3500ポンド、焼け石に水、でも彼は息子と娘を連れて英国へと向かう。

     妻はといえば、エチオピアへと旅立った。目的はシバの母の足跡を追うこと。

    合流の約束も虚しく、彼女は間もなく消息を絶つ。

     彼のもとにシッターとしてモリー、『ユリシーズ』のヒロインと同じ名前、

    シバと同じルーツ、が現れ、そして間もなくシバを連れて姿をくらます。

     

    「エチオピアが独自の時間帯を発明したというのではなく、エチオピアの

    時間帯がオリジナルな時間、つまり、他の時間帯がそれを参照して時間を

    決めるような時間なのだ。シバは、ロサンジェルスにやってきて数週間の

    うちに英語をマスターしたが、一年以上たっても、時間の概念は彼女の

    頭に入らなかった。時間に関する用語を理解しないのだ。『明日、みんなで

    公園に行くよ』と、ザンが言う。

    『オーケー』と、シバが言い、数分後には、『パピー、行こう』と言うのだ」。

     本作はすべてこのルールに従って書き進められる。

     あるいはそれは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を想起させる。

     時の流れや因果さえもがしばしば脱臼を来したまま、例の未来学とやらが

    言うように、無数の選択肢の枝分かれが編み込まれ、綾をなし、あまりに

    ご都合主義的な結びつけを経つつも、やがてとある「名前」へと収束する。

    一見、無時間的な仕方で撚られる糸は、それでもなお歴史に縛られることを、

    あるいは歴史を縛ることを片時もやめない。

     

    「一人じゃ、何も変えられない。少なくとも、私には無理だ。私は偶然に

    生まれた子にすぎない。だが、偉大でない人間でも、偉大なことをしようと

    試みなければならないときもある。……私は自分が怖いと思うことをします。

    なぜなら誰かが何かの一部を変えることはできるし、そうした何かの一部が

    別の一部を変え、やがて湖のさざなみが水辺まで届くのだと思うからです」。

    「変える」ことを放棄して、このうんざりするような世界を「変え」てくれる

    誰かを求めれば、その「さざなみ」からファシストは生まれる。

     ファシストが世界を壊すわけではない。

     壊れた世界だからこそ、ファシストが現れる。

     

     この小説が幕を下ろし、それに代わり読みはじめたテキストの冒頭から

    安部公房『第四間氷期』を重引する。

    「残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だという

    ことで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にある

    のではなく、むしろ断絶を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」。

    『きみを夢みて』の要約として、たぶんそう遠からぬところにある。

     この符合、果たして偶然か。

    ヤングアダルト

    • 2020.02.05 Wednesday
    • 21:59

     ファウストよろしく知に倦み果てたヴィクター・フランケンシュタインは、「時間の

    流れを遡り、知識の足跡を逆にたどり、……忘れられた錬金術師の夢を求めた」。

    解剖学に魅せられたダ・ヴィンチをなぞるがごとく、「堂々たる体格の男が朽ち果て、

    無に帰していくさまを眺め、生命の徴候を宿した頬が死の腐乱に乗っ取られる

    ところを見守り、驚異の結晶とも呼ぶべき人間の眼球や脳を蛆虫が食いあさる

    様子を凝視しました。……こうした観察から得られた、生から死へ、死から生へと

    転じる原因と結果と思われるものを、どんな些細なものも余さず詳細に分析し、

    検討し続けたのです。そうするうちに、この先も見えぬ漆黒の闇の彼方から突然、

    ひと筋の光明が射してきました」。

     そうして彼は怪物を生み出した。

     

     原子力やAIを典型に、人智にして人智を超えた制御不能なモンスターを

    科学に重ねる、そんな読み方もできるだろう。ある時代においては、肌の色に

    根拠を置いた人種差別の悲哀が投影されることもあっただろう。現代ならば、

    リチャード・ジュエルがやがてジョーカーへと変じる、そんなローン・ウルフの

    原型を見て取ることもできるかもしれない。

     だが、本書においてまず観察されるべきは、アダマ(土)に息を吹き込む

    ことで己が似姿に生命を注いだ物語を重ねることで神に比肩し、神を失い、

    ただし全知全能の属性を欠いた近代自我の帰結に他ならない。

    「ああ、神よ! あの怪物の悪魔のごとき企みにどれほどいまわしい意図が

    隠されていたことか、ほんの一瞬でもそこに考えが至っていれば、……自ら祖国を

    永遠に去り、友もいない孤独な世捨て人となってこの地上をさまよい続ける道を

    選んでいます。けれども、これもまたあの怪物の魔力のせいでしょうか、わたしは

    眼をふさがれたように、あやつの真意を読み取れなかったのです」。

     神託を辿る他ないわが身を嘆くオイディプスならば、物語をそこで閉じることが

    できただろう。しかしフランケンシュタインの眼前にもはや神は残されていない。

    「慰めを得る手段」は唯一、「孤独と錯乱から生まれ」る、ノスタルジアなるものが

    すべからくそうあるように。恋しきエデンの記憶すら有無すら知れぬ辿り着き得ぬ

    彼岸でしかなく、やがてヴィクターが看破する通り、イヴはアダムを癒さない、

    今、ここを共有可能な主体であることがもはやできないのだから。

     再帰型近代の磔にされた彼が向き合うことを許されるのはもうひとりの「わたし」、

    怪物の他に何もない。この独白体で構成される小説の巧みは、ヴィクターと怪物が

    ともに「わたし」を主語にとることで図らずもその同一性を明かすことにある。

    「わたしが為さねばならぬのは、この手で創り出した怪物を追いつめ、滅ぼす

    ことです。それが終われば、この地上でわたしに与えられた運命は完結した

    ことになる。そのとき、わたしも死ぬことができるでしょう」。

     すべてエロスはタナトスを通じてのみ規定される。

     ここでもまた、フロイトは偶発的に真を衝く。

    I would prefer not to

    • 2019.09.26 Thursday
    • 05:55

    「書記バートルビー」。

     法律家の「私」は業務の拡張に伴って新たに書記の求人を出す。

    「そこで私が出した広告に応じて、一人のおとなしい若い男がある朝、

    事務所の入り口に立っていました。夏だったので、入り口のドアは開いて

    いたのです。ああ、その姿は今でも私の目に浮かびます――青白いほど

    こざっぱりして、哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿!

    それがバートルビーだったのです」。

     法律文書の筆写という職務を機械的にこなす彼に異変が間もなく訪れる。

    原本と写しのチェックを命じられたときのこと、彼は「非常に穏やかな、しかし

    しっかりした声で」こう言った。

    「わたくしはしない方がいいと思います」。

     

     交わした契約は、1フォリオ(100語)につき4セント。バートルビーにとって

    果たすべきデューティはこれ以上でも以下でもない。状況倫理としての応答性、

    レスポンシビリティの主体としての引き受けは断乎として拒絶される。

    「答えるとき以外決してしゃべらない。自分自身の時間をかなり持っているのに、

    本を読んでいるのは見たことがない。いや、新聞さえも読まない。……喫茶店や

    安食堂には決して行くことがない。……紅茶やコーヒーを飲むということもない。

    それに名前をあげれば私でさえも知っているような場所へは決して出かけは

    しない。散歩にも行かない」。契約通りのレイバーを除いて彼のすることといえば

    「ずっと身動きもせず、仕切りの向うの窓から視界を遮るレンガの壁に向かって

    物思いにふけ」ること、実のところ、何もしていない状態にあえて何かをしている

    かのような意味づけを外部から無理矢理にこじつけられたに過ぎない。

     正のインセンティヴが作動しない以上、振る舞いの一切はいかにして負を

    回避するかに従って規定される、つまり、何もしない。だから頑なに繰り返す。

    「わたくしはしない方がいいと思います」。

     それはちょうど彼の好対照をなす、同僚二人の姿を通じて強調される。

    まるで「衛兵のように互いに交代し合って」不機嫌な午前と静穏な午後を

    日毎繰り返すニッパーズと、ジキルの午前とハイドの午後を併せたターキー。

    彼らは共にインストールされた暴力性の発露を自律性と信じて疑わない。

     人格という神話の周縁、否、終焉には常にバートルビーが横たわる。

    結局のところ「漂流船」のベニートも同じ構造を反復するに過ぎない。

     

     生きていたいわけでもない。死にたいわけでもない。

     もし眠りに落ちたきり、朝を知ることがなければ――彼にとってそれを幸福という。

    「悔い改めよ。天の国は近づいた」

    • 2019.08.18 Sunday
    • 20:59

    「運命は抗し難い力で私の背中をぐいぐい押した。理性は何度もやめろといい、

    冷静な判断は家に帰るべきだと告げていたが、私はどうしてもその声に従うことが

    出来なかった。私を突き動かした力、それを何と呼ぶべきか私にはわからない。

    破滅へとわれわれを駆り立てる力――目の前にあるものが破滅だと承知しつつも、

    そこへ飛びこんで行けと人を促す人智を超えた力――、そうした力が私に

    作用していたのだと主張するつもりはない。けれども私は、何らかの不幸な運命が

    私には逃れ難く課せられていて、それゆえ、落ち着いて理性を働かせ、熟慮の末に

    下した判断や確信に逆らってまで突進した。そう考えざるをえない」。

     そうして「私」ロビンソン・クルーソーはアフリカを経由してブラジルへと渡る。

    農園の経営者として半ば約束された成功、しかし彼はここでも「突進」を選ぶ。

    奴隷を求めて漕ぎ出した船は洋上で座礁、打ち上げられた彼は命からがら

    ひとり小島に辿り着く。

     

    「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブをめぐって、

    サタンは神を挑発する。悪辣の限りにさらされれば、お気に入りといえども

    必ずや神へと呪詛を示すに違いない、と。神はまんまとその誘いに乗る。

    「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」。

     艱難辛苦の末、ついにヨブは神への恨みを口走る。

     

     あたかも『ヨブ記』とロビンソンは対照的とも見える軌跡を辿る。

     孤島にひとり残された。地震にも襲われた。そして病で死線をさまよう中で、

    彼は父のことばを思い出し、ついに神への信仰に覚醒する。「私の災難は、

    神の思し召しであり、こんな惨めな思いをしているのも神の定めなのだ」。

     教会もない、牧師も神父もいない、ただし悔い改めた彼には聖書があった。

     

     大航海時代に「荒野の誘惑」を重ね合わせ、「聖書のみsola scriptura」の教義を

    小説の形式であらわす、たぶんデフォーの意図というのはそんなところなのだろう。

     しかし、今日の眼差しから改めてこの小説を眺めるときに、そのキリスト教文化が

    異なる表象を帯びて観察されることに気づく。

     座礁した船からアイテムや食料を確保する。

    「パンや米、オランダ産チーズ三個、干したヤギの肉五切れ……ヨーロッパ産の

    穀物の残り……飲み物は、船長の所持品であった酒瓶の木箱があり、中には

    強壮飲料や、全部で五、六ガロンものアラック酒が詰まっていた」。

    「次に必要なものは弾薬と武器だった。船長室には上等の鳥撃ち銃が二挺と

    拳銃が二挺あったので、火薬入れや弾丸を入れる小袋、古い錆びた剣二本と

    ともに、ありがたく頂戴することにした。それから火薬が入った樽が三つばかし」。

    「船にはまだいろいろなものがあったので、それらを持ってくれば大いに役立つ

    だろうと思った。特に、索具や帆、それから他にも持ち帰れそうなものはいろいろ

    あった。……大小の釘が入った小袋、特大のねじジャッキ。一、二ダースの

    手斧などである。一番の掘り出し物は砥石であった。……それから、砲手の

    持ち物もいくつか入手した。二、三本のバール、マスケット銃七挺、二樽分の

    マスケット銃弾、鳥撃ち銃一挺、若干量の火薬、小弾を入れた大袋、鉛板

    一巻きなどである」。

     奇しくもこの作家の誕生と前後して、かのクロムウェル・ファミリーの指揮の下、

    今日国家と呼ばれる概念に与えられていた語はcommonwealth

     孤独な彼は、決してプリミティヴな世界へと帰還せず、文明の記憶と暮らす。

    彼に課せられたミッションとは、与えられた状況下、限られた道具立てをもって

    いつか戻るべき祖国の似姿をいかにして再現するかに他ならない。

     異国情緒に身を委ねつつも、あくまで大英帝国民としてのあり方に固執する、

    消費カタログとしての冒険譚、何かに似ていると思い、間もなく気づく。

     小説にせよ、映画にせよ、つまり『007』シリーズそのもの、ただし女のいない。

     

     一度知恵の実を味を知ったアダムは、もはやエデンに戻ることはできない。

     その子孫たる読者は、神への限りなき恭順にかこつけたこの現世の勝利宣言に

    拍手を送る以外に何ができるだろう。

    善悪の彼岸

    • 2019.08.01 Thursday
    • 21:29

     その男、チャーリー・マーロウにあったのは、船乗りとしてのいくばくかの経験と

    未知の大陸をめぐる好奇心、そして職を得るのに必要なコネだけだった。

    かくして商社に雇われた彼は勇躍コンゴへと漕ぎ出す。

     目的地が近づいていくにつれ、出会う人々がある共通の人物を口にする。

    奥地の出張所で責任者を務める傑物で、その名をクルツという。象牙の入手に

    剛腕を発揮する彼は「万能の天才」にして、「慈悲と、科学と、進歩と、そのほか

    いろんなものの使者」、そして今、その彼が危殆に瀕しているという。

    「あの河をさかのぼるのは、世界の一番初めの時代へ戻るのに似ていた。

    地上で植物が氾濫し、巨大な樹木が王者として君臨していた時代のことだ。

    がらんと広い河面、大いなる沈黙、入り込めそうにない密林。大気は熱く、

    ねっとりと濃く、重く、澱んでいた」。

     この船路の果てには先駆者クルツが待ち受ける。目に映るものの何もかもが

    今やマーロウにおいてはクルツの追体験として把握される。やがて彼はクルツに

    まみえ、そしてその後、とある決断を迫られる。

     

    「クルツはあの土地の悪魔どものあいだで高い地位を占めていた――これは

    文字どおりの意味でだ。君らにはわからないよ。だってわかるはずないだろう

    ――足の下には堅い舗道で、まわりには励ましてくれたり文句を言ってきたりする

    良き隣人たちがいて、肉屋と警察官がいる街を上品に歩き、醜聞の種になったり、

    絞首刑になったり、狂気に陥ったりすることをひどく恐れながら小心翼々と

    暮らしている、そんな君らにはね。誰にも束縛されずに歩いていく人間が、

    孤独をくぐり抜け、静寂を通り抜けて、原始の世界のどんな異様な場所へ

    たどり着いてしまうことがあるか、君らにわかるはずがない。その孤独は、警察官の

    いない完全な孤独――静寂は、親切な隣人が世の意見を代表して警告してくれる

    声が聴こえない完全な静寂だ。警察官の保護や隣人の助けといったものが

    あるかないかでは大きな違いが出てくる。そういうものがなくなれば、持って

    生まれた自分の力と、自信を持つ能力に頼るほかない」。

     本書の主題はこの独白をもってほぼ遺漏なく尽くされる。そしてこの引用から

    フリードリッヒ・ニーチェを想起することをためらうべきいかなる理由がありえようか。

     時にそれは人種を超えた理想主義者として、時にそれは商社の命を受けた

    辣腕の功利主義者として、時にそれは暴力をもって従える植民地主義者として、

    クルツはいずれの瞬間においても、状況への応答主体としての己を引き受ける。

    彼は決して多面的なるスフィンクスとして表象されない。永劫回帰を知悉しつつ、

    クルツはクルツ、そのことを徹底的に具現する「超人」であるに過ぎない。

     

    「どんな経験であれ、生で感じたままを他人に伝えるのは不可能だ――

    生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり――捉えがたい深い本質

    なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぽっちで生きている」。

     ただし同時にマーロウは訴える。

    「クルツと話を……俺は片方の靴を河に投げたが、その時不意に、それこそが

    まさに俺の求めていたことだったと自覚した――クルツと話すことがね。(中略)

    クルツは豊かな才能を備えた人物だったが、そのすべての才能のうち、最も顕著で

    本当に存在感を持っていたのは、語る力、その言葉――表現する能力、人を

    混乱させ、啓蒙する、とびきり高尚でありながら卑しむべきもの、脈打つ光の流れ、

    あるいは見通せない闇の奥から発する欺瞞の流れだったんだ」。

     その「言葉」のあり方は、どこか現代的なオーラル・ヒストリアンと一脈通じる。

    歴史の審判なる糾弾へと晒すでもない。正史を綴るための具を求めるでもない。

    さりとて罪に目をつぶれと唱えるでもない。「不可能」性を知りながら「生の感覚」に

    寄り添うこと、「誰にも束縛されずに歩いていく人間」が状況へと立ち向かった

    その事実に拍手を送ること、「声」を交わす一連の過程こそが自己目的化される。

     それは言い換えれば、物語が物語であれた時代を悼む挽歌として。

     

     ドイツの巨人は間もなく狂人としてこの世を追われた。

     来るべき歴史は、「永劫回帰」のその意味を否応なしに上書きした。世界が不可視で

    あるとすれば、それは単に人間の計算能力の貧弱の結果に過ぎない。行為の一切は

    スクリプトとして記述される。意志なる神話はもはや横たわるべき場所を持たない。

    ゆえに「超人」もそこにない。

     正論は唯一、他人を叩くための方便として存在する、そんな卑しき黄昏の時代に

    誰が『闇の奥』を読み解くことができるだろう。