超積極的

  • 2018.11.06 Tuesday
  • 22:22

「何百万年にもわたって、私たち人類の祖先は、さまざまなタイプの危険な動物と

遭遇してきた。大きくて屈強な相手、小さくても命取りになる相手、極小でもひどい

苦痛を与えてくる相手。そういった危険な動物との接触を重ねるうちに、私たちの

遺伝子には、危害を加えるおそれのある動物に対する先天的な恐怖心がしっかりと

刻みつけられていった。その遺伝子は、今日の私たちに引き継がれている。

 本書を通じて、自然界の愛おしさ、あらゆる生物に宿っている美しさを感じて

いただければと思う。どんな動物も、語らずにはおけない興味深い物語を内に

秘めている。そしてどの物語も、私たちが耳を傾けるのを待っている。幸いにも、

私はこれまで、地球上でもっとも美しく魅力にあふれた昆虫たち――刺針をもつ

昆虫たち――とさまざまな冒険を重ねてきた。刺針昆虫たちの生活様式の多様さや、

日々生き延びるための戦略の巧みさには、ただもう驚くばかりである」。

 

 この筆者、虫に刺された際の痛みを表すスケール「シュミット指数」の提唱者として

知られる。そしてこの研究をもって栄えあるイグ・ノーベル賞にも輝いている。

 何せ「痛みを正確に数値化できるような生理学や薬理学の手法は存在しなかった。

今日でもまだ、神経や脳の内部に電極を挿入して痛みの電気信号を記録し、それを

正確に読み取れるような方法は実現していない」。そこで筆者は考えた。自分で実際に

刺された痛みに等級を割り振っていけばいい。幸いにもと呼ぶべきか、このジャンルには、

各々の体験を持ち寄ってスコアをすり合わせようとする同好の士が少なからずいる。

 とはいえ、まさか彼らは研究資金つきのマゾヒズム耽溺を目的とするものではない。

「痛み評価スケールを作成すると、昆虫の生活の裏側にまで踏み込んで、その武器が

生存のチャンス拡大にどう関わったかを推測できるようになった。双方向からの予測が

可能だった。つまり、ある昆虫の外観や行動や生活史から、指されたときの痛みを

予測することができたし、逆に、刺されたときの痛みから、その生活様式を推測する

ことができた。たとえば、色鮮やかな単独性のハチは、地味な色のハチよりも強力な

パンチを繰り出してくることが予測された。なぜならば、派手な体色を進化させた

ことによって、『目立たなくする』という、大多数の昆虫が用いている防御法は

もはや使えなくなったからである」。

 

 本書の概要は、刺針持ちの昆虫をめぐる進化論のガイダンス。痛みや毒性を中心に、

彼らなりの生存戦略を解き明かす。

 冷静に読めば、相当硬い話をしている。小学生に薦めるのはいかにもつらそうだ。

 なのにやはりテキストがユーモラスに仕上がっているのは、刺されてみる、という正直

バカっぽさの否めない実験に自ら身を捧げる、リアクション芸人にも似た時に崇高とさえ

呼ぶべき何かが籠められているからに違いない。

 昆虫毒の中でも最強クラスというシュウカクアリについて、「二種類のホスホリパーゼ

A1B)が、細胞膜の主要な構成成分であるリン脂質を分解してしまう。すると細胞膜が

破壊されると同時に、リン脂質の分解生成物の一つ、リゾレシチンが痛みを引き起こす。

……さらに被害を大きくしているのがヒアルロニダーゼである。ちょうど肉叩きのような

働きをする酵素で、皮膚の結合組織をやわらかくして、他の毒液成分の浸透を促すのだ。

エステラーゼや酸性ホスファターゼなども皮膚や生体内の分子を分解して他の毒液成分の

浸透を促すのだ。……もう一つ、気になる酵素がある。脂質を分解するリパーゼだ。……

おそらくエステラーゼとともに作用して、イラクサに刺されたときのようなチクチク感や

ヒリヒリ感をもたらすのではないかと私は考えている」。

 こんなアナライズを繰り出してくる人間が、同じテキストの中で、「一目惚れならぬ、

一目刺しである!」と自ら味わったその興奮を熱弁してみせる。「刺されてしばらくは、

大したことはなく……ところが、その感覚がほどなく、肉をえぐられるような鋭い痛みに

変わるのである。鉛を詰めたブラックジャック(円筒形の革袋に砂などを詰めた棍棒)で

ズシンと殴打されたように感じることもあれば、魔術師が皮膚の奥深くまで手を伸ばして、

筋肉や腱や神経を引き裂いているように感じることもある。しかも、一度引きちぎられて

おしまいではない。引きちぎられては、少し和らぎ、そしてまた引きちぎられ、という

具合に波状攻撃が繰り返される。この拷問が数時間にわたって延々と続くのだ」。

 ……どうかしてる。

「度量衡学は、科学の母である」

  • 2018.10.15 Monday
  • 23:59

2018年は、質量の単位、キログラムの130年ぶりの定義変更を含めた、SI(国際単位系)

大改定の年となります。質量のほかに、電流(アンペア)、熱力学温度(ケルビン)、

物質量(モル)の定義がまとめて改訂されます。改めてそれぞれの単位の発展の歴史を

振り返る、とてもよい機会を与えていただいたことに感謝する次第です。キログラムの

定義である国際キログラム原器は、人工物によるものとしてはもっとも長く君臨してきました。

まさに、単位の王様といってもよいでしょう。それが、その地位を追われるわけです。

人類の歴史にも通じる、『単位の興亡史』ともいえるお話が展開します。

 このような変遷・進化は、自然に起こったものではなく、必ず背景に何らかの

モチベーションが存在します。その大もととなったのは、(国際的な)経済・通商上の

ニーズです。そのほかにも、より正確・精密に諸現象をとらえて表現したい、その結果として、

人間の認識の限界を越えたいという科学上のニーズがあります。このように、人間が

ある程度恣意的につくった単なる約束事・ルールともいえる単位ですが、それは、

科学・技術、そして、イノベーションの大きな源泉でもあるのです」。

 

 来たる国際度量衡総会において、「キログラムの大きさは、プランク定数の値を正確に

6.62607015×10^-34Jsと定めることによって設定される」という。プランク定数といえば、

「光子の持つエネルギー振動数の比例関係を表す基礎物理定数の一つ」で、それが

なぜ質量の定義と結びついてくるのか、となれば一般人の手に負えるはずもない。

 重さは秤にかければいい、時間は太陽に訊けばいい――日々の営みに役立つはずの

単位系が生活を遠く離れて、例えば「二つの基底状態セシウム133超微細準位間の

遷移に対応する放射周期の9192631770倍に等しい時間」(1秒)、「29979

2458分の1秒間に光が真空中を伝わる距離」(1メートル)との定義を獲得する。

 いかにもややこしい。

 そして、さらに事態をややこしくするのは、そもそもが独立に生み出されてきたはずの

単位系が、精度を求める研究史の中で、気づいてみれば、交差すべくして交差してしまう、

というミステリーにある。

 ところが本書を読み進むにつれて、これらの話がややこしいどころか、シンプルさを

追い求める中で辿り着いた、人間の技術と英知のもたらす必然であることを知らされる。

メートルの定義がいかにもそれを物語る。時間を精密に測りとる技術なくして、どうして

長さを決めることができようか。メートル原器やキログラム原器、あるいは太陽(周期)と

いった「もの」よりも確かな何かを求める歴史は、至るべくして光速やプランク定数などの

基礎物理定数へと至る。

 

 単位という基礎の歴史を追跡していくと、いつしか物理学の基礎研究史に合流する。

順序としてはあるいは、基礎研究の落とし子が例えば単位に結実したとでも表現すべき

なのかもしれないが、いずれにせよ、本書は見事に科学の進化史をトレースする。

 

 現状の1秒の定義によって生じる誤差は15桁、つまり数十万年でようやく1秒の誤差が

生じるかどうか、だという。ここで私のような凡人ははたと手を止めてしまう、何を基準に

「誤差」といっているのか。1秒それ自体の定義のはずが、1秒の中に「誤差」を、翻って

「誤差」なき1秒を内在させる、そんな入れ子ループに束の間めまいを覚える。

AIは青いバラの夢を見るか

  • 2018.05.23 Wednesday
  • 00:00

 

 この花の名を「ミスター・ローズ」という。

 2013年春、鈴木省三の生誕100年を祝して捧げられた。

「日本にもバラがあるのですか」、そんな侮辱を乗り越えて、世界の園芸界に

極東の存在を知らしめ、かのニックネームを獲得するに至る。

 

 この花の名を「ピース」という。

 1945年、大戦の終結にあたって、願いを託すべく改めて命名を受けた。

 博覧会の展示依頼を受けて輸入した実物をはじめて見た鈴木は驚愕する。

「大きな花びら、柿の葉のような頑丈な葉、親指ほどある太い茎、まさにバラを

超えたバラ」だった。

 そのバラはサンフランシスコ講和に際して、会場を彩ったバラでもあった。

条約を手がけた吉田茂の宿敵、鳩山一郎と鈴木を結びつけたバラでもあった。

 本来ならば、黄味を強めた「ミスター・ローズ」のような花を咲かせる。

 

 作出者はフランシス・メイヤン、同世代の鈴木が「羨望と尊敬と嫉妬が

ないまぜになった感情」とともに仰ぎ見た育種家だった。

 そしてその息子アランがやはり育種家の祖父アントワーヌに捧げたバラがある。

 この花の名を「パパ・メイアン」という。

 

 シェイクスピアに言わせれば、バラと呼ばれるその花は、たとえその名を

失おうとも、変わらずかぐわしき香りを放つ。

 

「バラの花弁には、シアニジンとペラルゴニジンしかない。青い花にはある

デルフィニジンがない」。

 ブリーディングを重ねようとも、そもそも遺伝子が青の色素を含まない以上、

願いは届くべくもない。それでもなお、交配を通じて叶わぬはずの夢の具現に

励む人々はいる。

 ただし他方で、バイオ・テクノロジーを通じて、その遺伝子を組み込む試みを

目指すものもいる。他にもpHコントロールなど、青の発現のネックになる点は

あるのだが、そうしたことも含めて、ゲノム・サイエンスからの達成を図る。

 最相が原著を上梓したのは2001年のこと、クローン羊のドリーが物議を醸し、

狂牛病が恐怖を喚起した時代。その時点における筆者の関心は、いわばGCAT

4進法による生命科学が人間を包囲する未来、青いバラはその象徴となる。

 そして今『青いバラ』を再読する私は、少し異なる問題軸の時間を生きる。

つまり、01かの二進法によって人間の知能が凌駕される未来がSFを出でて

現実感を帯びる時代。

 

 ワトソンとクリックの発見など知る由もない時代ですら、経験主義によってか、

青いバラには「不可能」のイメージが仮託されていた。

 ドイツのロマン派詩人ノヴァーリス『青いHeinrich von Ofterdingen』。主人公は

夢の中で見た青い花を求めて旅に出る。そして奇しくもその行路は母の郷里へ向かう

道筋でもあった。届いたかに見えた花はその都度彼を遠ざかり、着地点を知らぬまま、

物語はついに未完のまま閉じる。

「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」。

 

 青いバラがある。バラの青という様なものはない。

 この花とて、最相に言わせれば、「青くはない。青を求めてつくったのだといわれれば、

そう感じられる程度の藤色、ラヴェンダー色」でしかないのかもしれない。

 けれども、赤バラの螺旋に吸い寄せられた後、ふとその花に視線を逃がす。

 青いバラがある。果てしなく青い。それがたとえ残像のもたらす錯覚に過ぎずとも。

 背筋がそばだつ。

 この花の名を「ノヴァーリス」という。

アンナチュラル

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 23:34
評価:
ヴィンセント・ディ・マイオ,ロン・フランセル
東京創元社
¥ 2,700
(2018-01-31)

「法医学的証拠は司法の根幹をなすものだ。それは証言の内容を変えることも

なければ、見たものを記憶違いすることもない。裁判所の外に怒れる群衆が

集まっていても怖気づいたりもしない。恐怖のあまり逃げたり口をつぐんだりも

しない。どこまでも正直に率直に、知らなければならないことを我々に告げる。

たとえ、それとは違うことを言ってほしいと我々が望んだとしても。我々はただ、

それを見て誠実に解釈する知恵を持たなければならない」。

 

「完璧な犯罪などというものはない。未熟で不注意な捜査員と、いいかげんな

検死医がいるだけだ」とは、さる往年の名医のことばだという。

 本書が教える検死の実際は、アメドラの世界とはかなり隔たる。『CSI』よろしく

最先端の技術で秘められた真相を探知することもなければ、モーラ・アイルズの

ごとく意識高い系リッチ・ライフを送ることもない。何せ捜査当局にそんな予算が

割り振られてなどいないのだから。それでもなお筆者は力説する。

「私は、1940年代の検死医を現代のモルグに連れてきて、半日ほど最新科学に

ついての研修を受けさせれば、それだけで充分に仕事ができるだろうと心から

信じている。なぜなら、優れた法医学者の一番のツールは今も自分の目と頭脳と

メスだからだ。それらがなければ、どんな最先端科学も役には立たない」。

 そのことを証明するのが本書で紹介される実例の数々だ。ある事件は、白人の

自警団員による黒人銃殺が正当防衛であるか、否か、をめぐって争われた。裁判は

いつしか人種問題へとすり替えられ国論が分断される中でも、筆者に言わせれば、

「法医学的にはまったく複雑ではなかった。悲劇的なまでに単純だった」。

 その論証に「最先端科学」はいらない、「自分の目と頭脳」さえあれば十分だ。

 

 そして筆者は法廷に立つ自らが直面する、あまりに皮肉な現実を告発する。しばしば

「科学的な証拠は、多くの人が聞きたくなかった、そして今にいたるもなお信じようと

しない事実を物語」る。このテキストが取り上げる事例は往々にして挑発的。

人種あり、児童虐待の疑惑あり、音楽業界の超大物が被告人となった裁判にも関われば、

JFK暗殺犯とされる男への陰謀論をめぐり、墓から遺体を掘り返しての解剖にも立ち会う。

 それらのいずれにも共通する点がある。「人は法医学的事実よりも、自分の信じたい

ことを信じる」その態度である。

 ストーリー・マーケティングの他に見るべきもののないV.ゴッホの死をめぐって

想像を巡らせるのはいいだろう、荒唐無稽な空論で世間がどれほどどよめこうとも

ただオークショニアが喜ぶだけ、もはや誰が傷つくこともない。

 しかし、「論理的思考」ではなく感情で人が裁かれるとなれば、話は変わる。

そしてそのことが、推理の快刀乱麻を超えて、読者の手を不意にフリーズさせる。

フィクションならばまず間違いなく、主人公の明らかにする真実を前に登場人物が

ひれ伏して、物語は決着を迎えるだろう。しかし現実は時としてそうはいかない。

 そんな狂気の法廷を前にして、それでもなお法医学者の矜持が語らせる。

「私の患者はもう苦しんではいないが、その多くが裁きを求めている。彼らを生き

返らせることはできないし、最後の別れを言う時間すら与えられない。だが、私には

正しい裁きを与えることができるのだ」。

ほんとにあった怖い話

  • 2018.05.10 Thursday
  • 23:17

「本書の目的は、ごく簡単なことだ。今日の科学は、『なぜ何もないのではなく何かが

あるのか』という問題に、さまざまな角度から取り組めるようになっているし、現に

取り組みが進んでいるということを知ってほしいのである。そうして得られた答えは

どれも――それらは驚くばかりに美しい実験で観察され、現代物理学の屋台骨と

いうべき理論から導かれたものだ――何もないところから何かが生じてもかまわない

ということをほのめかしている。かまわないどころか、宇宙が誕生するためには、何も

ないところから何かが生まれる必要がありそうなのだ。さらには、得られている限りの

証拠から考えて、この宇宙はまさしく、そうやって生じたらしいのである」。

 

「人間が貧しい想像力で考える以上に、宇宙は奇妙なものなのである」。

 本書がなぜ面白いというに、とにかく宇宙がどんなオカルトよりもどうかしているのだ。

ゆえに本書を読む門外漢はその記述を前にどうにも笑いをこらえることができない。

Nothing is something”。「われわれの宇宙はインフレーションのようなプロセスと同様、

『何もない』空っぽの空間のエネルギーが、『何か』に転換されることによって生じ」た。

 読み返すほどにめまいがする。いかなる禅問答にも勝ってクレイジー。

 筆者に言わせれば、われわれは宇宙スケールでまたとない幸運な時代を生きている。

というのも、「未来のある時点で、われわれからの後退速度が光速を超え、それ以降は

見えなくなる。その銀河から出る光は、空間の膨張に逆らってこちらに接近することが

できず、われわれのところには決して届かない。……これから2兆年ほどで、局部

銀河団に含まれる銀河を別にすれば、すべての天体が、文字通り姿を消す」。

 仏教において、弥勒が釈迦の後を継ぐ、とされているのがたかだか567000万年後、

まさに桁違い、ただしこれも筆者によれば、「けっして永遠と言えるような長さではない」。

 1997年、ブーメランBOOMERANGと名づけられた気球実験が南極上空で行われた。

この撮影旅行の目的は「宇宙背景放射」を捉えること、「30万歳だったときの宇宙の姿」を

画像に収めること。やれ地縛霊だ、先祖だ、と宣ってはばからないどんな心霊写真家でも

ここまでの大言壮語はそうそう口にすまい。

 

 こんな情報を畳みかけられれば、誰しもが承服せざるを得ない。「科学は、神を信じる

ことを不可能にするのではなく、神を信じないことを可能にするのである」。

 宇宙はいかなる精神世界にもまして深くて広い。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」――「もしも何もなかったなら、そんな領域に

われわれは存在しなかっただろうから」。

 理を突き詰めたその先に、とにかく「ある」というこの理不尽、ただ畏怖に震える他ない。