noble savage

  • 2019.04.15 Monday
  • 23:02

「人とは深くちぎらず――。“本田語録”のひとつであるが、言動に逆行するかの

ように、本田は接した人々を自然に引き付けてしまう人だった。

 本田は志操堅きジャーナリストだった。滑らかで艶のある文章を書く作家だった。

その心に優しき心根を宿す人だった。もとよりそれは品行方正という意味ではない。

喧嘩早く、博打事に長けた、諧謔と無頼風を好む人でもあった。(中略)ともあれ、

人・本田靖春には、波動してくる固有の調べがあって、それは作品群にも色濃く

流れている。不肖の、一後輩ライターである私が、本田作品に引き寄せられて

きたのもきっとそのせいであったのだろう。

 本田の残したノンフィクション作品や時評や対談や回想記を、伴走者として

かかわった編集者や関係者の追走を含めてたどってみたい。その作業を行なう

なかで、調べを奏でる源にいま一歩、分け入ることができればと思うのである」。

 

 本田が自身の作品集を上梓するに際して寄せた文章よりの引用。

「私は中学一年のとき、外地で敗戦を迎えた。引き揚げてきた私を待ち受けて

いたのは、民主主義教育である。(中略)人間として眼を見開きはじめた時期に、

民主主義と出合えた意義は大きい。かつての日本がいかに間違った道を歩んだか。

植民地二世として生まれ育った私には、過去の日常の中に、思い当たる節々を

たくさんもっていた。

 引き揚げたのちの暮らしは、世俗的にいうと苦労の連続であった。貧乏もしたし、

日本社会の閉鎖性や排他性をいやというほど味わいもした。だが、それらを通じて

弱者の視点を獲得した。

 ある時期から私は、『由緒正しい貧乏人』を自称するようになった。それは、

権力に阿ねらず財力にへつらわない、という決意表明であった」。

 本書『拗ね者たらん』の梗概として、これに加えるべき表現を特に持たない。

当人がとうに著していることを改めてなぞり直しただけとの評は、常識的には

手ひどい罵倒と受け取られるべき類のものなのだろう。

 

 ところが。生島治郎との対談において、本田は語る。

「他人のことばっかり書いてさ、いわばアバいて、自分が無傷でいるわけに

いかんじゃないかっていう気持ちもあるんだよな。(中略)この商売やってて

最終的に書くことは何だっていったら、やっぱり自分のことだと思う」。

 言うなれば、筆者の仕事はこのことばに嘘偽りのないことを証明するために

あてられている。通常、作家その他の表現者についてのノンフィクションとして

期待されるものといえば、むしろ本人が言わなかったこと、書かなかったことに

光を当てることにあるように思われ、そうした評価軸に照らせば、書いたことを

写し取っただけとも見える本書はいかにも物足りない一冊として把握されよう。

 そんなことはたぶん筆者とて分かっていて、その上で、甘んじて噛ませ犬を

引き受ける、この真摯な敗者の美学にこそ本書の輝きはある。

 著述家について何を書こうとも、当人のテキストに勝ることなどできない、

同業者が寄せる賛辞としてこれ以上の仕方があるだろうか。

 

 もちろん、筆者の独自性とすべきだろう、本田を今一度再確認する意義は

記述の端々から見て取れる。ネトウヨ・フェイク・ニュースが恥ずかしげもなく

「公共放送」を僭称する時代に「由緒正しい貧乏人」、別言すれば、粗にして

野だが卑ではない、その生き様を辿り直す。

 そしてその絶望も知らされる。社会部がもはや社会部たりえない、なぜなら

もはや社会がないから。そこにあるのは会社だけ。かくして本田は読売を去る。

平成以前、昭和に既に横たわったその葛藤が本田を本田たらしめた。

 

 その中に、あえての希望を探す。

 2004年の晩秋、病魔に蝕まれた本田の絶筆原稿とともに、編集者は夫人から

あるものを受け取る。「お嬢ちゃんに」と手渡された菓子箱を帰り道に開いた。

手縫いのお手玉だった。もうひとりの「由緒正しい貧乏人」が、夫の人工透析に

付き添うその傍らで仕上げたものだった。

「人の子供のことを案じている場合じゃないでしょうが。なんていう人たちだ……

 ぬぐってもぬぐっても涙がとまらない。道を行き交う人から怪訝な視線を

向けられてもどうすることもできなかった」。

 現代にもまだ、「拗ね者」たるべき理由はある。

セラピスト

  • 2019.03.16 Saturday
  • 21:19

 本書の原題は、The Soul of an Octopus

 映画『パターソン』にて、本棚に背表紙を見つける。

 

「今から五億年あまり前に、進化の過程でタコにつながる系統と人間につながる系統とが

分かれた。私は思った。その進化の分水嶺の向こう側にある、もうひとつの心に触れる

ことはできるのだろうか、と。……私はタコに会いたいと思った。もうひとつの現実に

触れてみたかった。私たちの意識とは別の種類の意識が実際に存在するのだとしたら、

それを探ってみたかった。タコというのはどんなふうに感じているのだろう。人間の場合と

似たところはあるのだろうか。そもそも、それを知ることなんてできるのだろうか。

 だから、水族館のロビーで出迎えの広報担当者から、アテナというタコを紹介しようと

言われたときは、別世界に招かれた特別な客になった気分だった。けれども、その日を

境に私が発見することになるのは、実は私自身にとっての愛おしい青い惑星――息を

のむほど異質で驚異的なすばらしい世界だった。この地球に生まれて半世紀、その

大部分をナチュラリストとして過ごした末にようやく見つけた、自分の居場所だと心から

感じられる世界だった」。

 

 肉体は魂の牢獄、そう公言してはばからなかったソクラテス(プラトン)にとって、

知を愛でる作業とはすなわち、魂をいかにして解放するか、その成就に他ならない。

 ゆえに彼は『パイドン』において結論する。肉体からの魂の自由、その一点において、

死と哲学は限りなく等しい。ここから高名なテーゼ、「哲学は死の練習」は導かれる。

 

 書き出しにこんな挿話を挟んでおいて、勘違いするな、という方が無理というものだが、

『愛しのオクトパス』自体は、とても幸福感に満ちたテキストである。

「タコはとても個性が強い。だから飼育係はたいてい、それぞれのタコの特徴をとらえた

名前をつける」。人懐っこいタコもいれば、エミリー・ディキンソンよろしく人目を避ける

タコもいる。無脊椎動物なのに、視覚、触覚、味覚などを駆使して、相手を識別している

としか思えないような態度の使い分けを示す。漏斗で水を噴射するのは気に食わない

ものを追い払うためだけではなく、遊びに用いることもある、そう請け負う人もいる。

 本書は、タコとの交流の記録であるとともに、取り巻く人々をめぐる観察記録でもある。

 あるアスペルガーの少女が「本当に満たされた思いを味わったのは、水族館で

ボランティアを始めてからだった」。そして突然、彼女は友人を亡くす。自殺だった。

癒したのはタコだった。彼女は言う、「泣いていても泣くのをやめる。だってタコが私に

触れてくれるんだもの。……人生最悪の夏。でも水族館での日々は人生最良の日々」。

 あるスタッフの場合、妻の肉体が奇病に蝕まれていた。ホスピスに入るその日の朝、

ただし彼は水槽の前にいた。ボランティアの誕生日を祝うためだった。彼は「悲しい

出来事が迫っているというのに、……きょうのこの日をいい一日にすることができている

――いわば奇跡だ。そんな奇跡をつかさどるのに、別世界の力の使い手であるタコ

以上にふさわしい者がいるだろうか」。

 

 メスダコが卵を産み落とす。ビーズ細工のように卵を房状に束ねて巣に吊るす。

人間との接触などもはや二の次、甲斐甲斐しく世話を焼く、ただし受精はしていない。

タコにとって産卵は死へと向かうスイッチでもある。余命半年、孵らぬ卵に心を砕く。

痛々しくも、崇高に。

「人間はタコのことをわかってませんよ」。

 各々が好き勝手にタコに見たいものを投影しているだけなのかもしれない。

 でも筆者は観客にタコは「あなたたちのことがわかっているんですか」と問われて

こう断言する。「もちろんです、……ひょっとしたら私たちが彼女をわかっているのと

同じくらい、あるいはそれ以上かもしれない」。

 スフィンクスの身体性の壁を超えて、共感があると信じなければ生きていけない。

 

 以下に余録の私事を連ねる。

 月一、二度のヤギ詣でをはじめて4カ月、先日ついに一匹が柵から身を乗り出して

顔を近づけてくれた。私が廻り込んだわけではない、餌で釣ったわけでもない、他の人に

同様のサービスを振りまくでもない、至近距離の私の背後に何があるとも思えない。

そのままじっとしばし見つめ合う。

 分かってくれた。

 Hello, World!

Let's Groove

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:23

 ジャジャジャジャーン。

 そう聞けば、もしくは、読めば、少なからぬ人々がひとつの連想へと誘われよう、

すなわち、「運命が扉を叩く」という『交響曲第5番』作曲家自身の解題へと。

 このエピソードの初出は『ベートーヴェン伝』、筆者は晩年の「楽聖」に仕えた

アントン・フェリックス・シンドラー。聴覚を失った主人の意志疎通を手助けした

現存138冊のノートを預かっていた人物としても知られる。

 ところが、この男が「音楽史上最悪のペテン師」だったとしたら――

 

「シンドラーにとって、嘘とは、ベートーヴェンに関するあらゆる『現実』を『理想』に

変えるための魔法だった。……彼はベートーヴェンの本性を衆目から隠そうとした。

見るに耐えないものを見るのは自分ただひとりでいい。そう思っていたのかも

しれない。傲慢な考えではある。ベートーヴェンが遺したものを捨てたり加工したり

する権利がおまえにあるものか、と責めたくもなるだろう。しかし、シンドラーは

現代的な意味での音楽研究者、あるいは歴史研究者ではなかった。……

シンドラーがベートーヴェンに対して抱いていた使命感は、『正確に実像を伝える』と

いう学問的なポリシーとは根本的に別のものだった。

 もしシンドラーが覆い隠した真のベートーヴェンを知りたいと望むなら、私たちが

すべきなのは彼の存在を葬り去ることではない。シンドラーに限りなく接近し、彼の

まなざしに憑依して、ロング・コートの裏側の『現実』に視線を遣ってみることだ」。

 

「別れた恋人の消息をSNSで見かけたときのような気まずさと好奇心で、

ついつい耳をそばだててしまう」。

 1795年生誕、1864年死没の人物に「憑依」した末、紡ぎ出された表現である。

幾重にもねじれたツッコミどころを探すことさえ忘れて、とりあえず笑う。

 

「黒歴史リベンジ・マッチ」、「虫けらはフロイデを歌えるか」、「イケメンリア充、

現る」、「嘘から出たマジ切れ」――以上、チャプターに割り振られたリード・

コピーの一例。

 

 デジタル世代の評伝を書くとしても相当に挑戦的なスラングまみれのスタイルを

よりにもよってベートーヴェン周辺の描写に用いて試みるというのだから、事態は

いよいよ混沌を極める。

 このヘッド・バンギングな文体を是とするか、非とするか、主役たるシンドラーを

差し置いて、もはやこの問題こそが本書の帰趨を決する。

 品の有無を言う前に、一定数の人々の頭にはそもそも入っていかないだろうし、

刺激の強さは裏返しとしてのインフレ破綻を前提せずにはいない以上、未来の

長文ライティングにおいてこれがスタンダードになるとも思えない。

 と、ネガティヴを羅列すればキリはないけど、「神の火花でみんなフロイデ!」

いいじゃない、だって笑えるから。

 ベートーヴェンがシンドラーにつけたあだ名が「パパゲーノ」、由来はもちろん

モーツァルト『魔笛』、「てめえは無駄口を叩くな」の隠語、ただし当の本人は

ついぞその意を理解しなかったらしい。そしてこの歴史的バカ歌は果てなき

神話化を経ていつしか聴衆の笑いを失った。

 これ以上の悲運が果たしてどこにあるだろう。

 本書の仕方は文体のための文体ではない、クラシックと敬して遠ざけられた世界に

同時代性の息を吹き込むその試みなのだ。成否を云々する前に、何よりもまずは

その敢闘精神に称賛を送らねばならない。

 少しだけ真面目な話をすれば、捏造、改竄を主題とする作品において

ヴェールの剥ぎ取られゆく過程が明かされないというのでは、そもそもの

片手落ち感が否めない。

 でも、何それおいしいの、それでいい。

 少なくとも、教養のための教養と化するよりはずっと。

一人酒盛

  • 2019.02.20 Wednesday
  • 21:56

 過日、iTunesのシャッフルモードで唐突に枝雀の「一人酒盛」に出くわす、

あの熱量に向き合う気構えなどまさかなかった。

 うまい。

 瞬時に人格が入れ替わる。「演じ手」としての巧みに手が止まる。

「人形だけが見えて人形遣いは見えない」。

 

「いつの頃からか持ちネタを六十にしぼったのでございます。『六十』という数字には、

宗教的な意味も、ましてや哲学的な意味もございません。自分の好きなネタを集めて

みますとたまたま六十になっただけのことでございます。

 どの噺も何百とある大阪落語の中から選んだ私の仲間なのです。……どの仲間も

好きで好きでたまらないネタばかりでございます。私の愛する仲間たちのノロケ話で

ございます。ネタのはなし、楽屋裏ばなし、想い出ばなし、むかしばなしにムダばなし、

いずれも話にひっかけましての六十プラス一席。おしまいまでごゆっくりとおつきあい

お願いいたします」。

 

「いらちの愛宕詣り」から。

「突然ではございますが、『いらち』[「イライラ、せかせかして落ち着きのない

人のこと」]でなければはなし家はやっていけないと思うのでございます。

『いらつく』ということは、いわば他人さんよりも先にダレるということであります。

ダレりゃこそいらつくわけです。フツーのテンポではしんぼうできない、とりあえず

次のことをせずにはおられないんですね。こういう神経は、ことにわれわれ芸人には

大切なんやないでしょうか? 一般のお人と同じようにダレてたんでは、おもしろいと

思うていただけるようなことができるはずがありません。他人さんのダレる一歩手前に

ダレが予測できて先に何かおもしろいことをしなければいけないわけですね。

それ故、芸人はすべからく『いらち』の方が良い――とこう思うのでございます。

 別の言い方をいたしますと、はなし家は『こわがり』でなければいけないので

あります。『こわがり』というのはなにかがあった時に反応が早いんです。ことに

それがマイナスの要素であれば敏感に反応しますから、聞き手の皆さんがどう

思っておられるか常に神経をいき届かせていることになります。

 そして、もうひとつ、はなし家は性格が暗い方がよろしい。昨今で申します

『ネクラ』というやつですな。性格が根っから明るい人は、別に無理におもしろい

ことを探さんでもええわけですから、かえって『どんなことがおもしろいのか?』と

いうことがわからないのです。『常識を弁えているからこそ、非常識なギャグが

創れる』というのは本当なんです。『ネクラの常識人』であるからこそ、おもしろい

ことが言えるんでございます。

 以上を総合いたしますと、『はなし家は、いらちでこわがりでネクラでなければ

ならない』――よう考えたらロクな人間やございませんね」。

酢豆腐

  • 2019.01.14 Monday
  • 21:35

 2001101日、筆者は妻との会話で古今亭志ん朝の死を知る。

 かつてない錯乱と喪失感の中で論じる。

「これは〈一人の名人の死〉といった〈点〉の問題ではない」。

 その葬儀は、筆者に言わせれば、「江戸から伝わってきた大衆文化の一つ、

江戸弁による江戸落語、その美学の葬儀でもあった」。

 ここまで言わしめる根拠について。「なんと言おうと、江戸言葉を自在に

喋れるのが最強の武器だった。これは生れつきのもので、家の中に江戸言葉の

名残がなければ始まらない」。

 このミームの最後の正統後継者が途絶えてしまった以上、江戸落語は必然的に

死滅の時を迎えたことになる。

 

 こうして要所だけを切り出せば、一つの論として頷ける点がないことはない。

 だがここに嫌悪感を誘われずにいないのは、つまるところ、落語という素材が、

両国に生まれ、江戸弁にさらされて育った筆者のナルシシズムの反映以上に

さしたる意味を持たない点にある。志ん生、志ん朝はついぞ本書においては

主題化されぬまま終わる。どうしようもないほどに、「ぼく」「ぼく」「ぼく」

たまに「私」――よかったでちゅね、ぼくちゃん、筆者は自慰以外の所作を

何一つ知ることがない。

 生前の志ん朝との座談に際して、ネイティヴであれぬことの悲哀、外国人の

ジョークに触れても肝心のところを掴めない点を嘆くが、本書の文脈においては

このペーソスさえも皮肉を帯びてしか響かない。つまり、「家の中に江戸言葉の

名残がな」い輩には、要は自分以外の観客には、江戸落語の面白みや奥深さなど

分かりようもないのだ、と。

 

 志ん朝の目指した「粋」の意を知りたければ本書を読めばいい、その対義的な

態度のことごとくが盛り込まれているのだから。

 卑しい、醜い、頭が悪い……あらん限りの罵倒を超えて、ただ痛々しい。