Castles in the Air

  • 2019.07.17 Wednesday
  • 23:00
評価:
ケイティ ハフナー
筑摩書房
¥ 8,794
(2011-08-08)

 そもそも「ピアノの進歩は、むしろピアノのための作品を書いた人間とともに

あったのであって、最終的にその作品を弾くことになる人間とともにあった

わけではない」。19世紀のトレンドにおいて先鋭化したのは、「音をより大きく

より遠くへ飛ばす能力、言い換えればそのような効果を狙って作曲された

音楽に適応する能力」だった。

 グレン・グールドにとって、その潮流の何もかもが苦痛だった。彼に言わせれば

「ロマン派の音楽は、テクニックを誇示したり、音楽的内容を犠牲にして音響の

どんちゃん騒ぎをやらかしたり、……耳になじんだ大衆迎合的な狭く無難な

レパートリーばかりを取り上げたりすることへの強い誘惑を作り出した」。対して

「彼がピアノから引き出したかったのは、乾いた、澄明な、軽い音色だった」。

 あるコンサート・ツアーの道中、あてがわれたピアノへの我慢が限界に達した

彼は、砂丘の車中で演奏を開始する。「心の中だけで、一本の指も動かさずに、

……のちに彼自身が語ったところによれば、そのときの車の座席での体験が、

本当に音楽というものを演奏したと感じた体験だった」。

 そして同時に知らされる、「つまり、理想のピアノはないだろう」。

 ところが、求め続けた青い鳥は生地・トロントにいた。

「鍵を押すと驚くほどに澄んだ音が鳴り、離した途端にずば抜けて効果的な消音

メカニズムが働いて即座に音が止まった。多くのピアノで起こるような、前の音の

余韻が消えずに次の音にかぶるようなことがなかった。そしてこれこそまさしく

グールドの惚れ込んだところだった。自分の命令どおりに鳴ったり、鳴りやんだり

して欲しかったのである」。

 

 とあるインタビューで「自分のテクニックについての話になったとき、こんな

禅問答風の説明をしたことがあった。いつでもピアノのすべての鍵について

自分なりの心的イメージを保持していて、すべての楽音の位置や、その位置まで

手を伸ばし打鍵するときの所作を触覚として覚えているのだというのである」。

 彼にとって、ピアノのアクションとは楽譜の記憶を繋ぎ留めるリマインダーに

過ぎなかった。だから「心的イメージ」への没入を妨げる他人の音には神経を

とがらせこそすれ、自らのかき立てるノイズにはとことん無頓着だった。

「グールドにとって、音楽創造は物理的なものではなく精神的なもので、どんな

楽器にせよその物理的な制約を超越するものだった。彼の場合、その楽器とは

ピアノで、それは演奏される作品と心の中に存在する作品との間で演じられる

闘いを仲介するものだった」。

「物理的」な世界の傍から見れば、ハミングも椅子の軋みもただの雑音、

ただし彼にとっては、「精神的」な領域へと己を誘うためのルーティーン。

録音スタッフを悩ませた、愛器の奏でる「しゃっくり」さえもいつしか彼の

「友だち」となった。

 

 それはどこかロマンスにおけるグールドのあり方と相似をなしていた。

とある人妻と恋に落ち、ただし彼女は結局、彼の「妄執」の対象を超えない。

死後に発見されたノートは証言する。「この瞬間、自分はひとりの個人との

日々の接触、あるいは心の支えとなる接触が不可欠だと感じている」。

事実として、「物理的」な世界において両者の交流はとうの昔に途絶え、

ただし、彼は「精神的」な世界における空想の彼女との「日々の接触」の

記憶をしたためた。それは他の誰でもなく、彼女であらねばならなかった。

 

「『要するに、ピアノは自分がそれほど大きな愛情を注ぐ楽器ではないという

ことですよ』と、彼はリポーターに向かって語ったことがある。ただし、こうも

付け加えていた。『生涯にわたってこれを弾いてきたし、これは自分の考えを

表現する最適の手段なんです』」。

慰めの報酬

  • 2019.07.10 Wednesday
  • 21:35
評価:
ナターシャ・ダウ・シュール
青土社
¥ 3,024
(2018-06-25)

 映画で描かれるカジノ・シーンの定番といえば、タキシードをまとった顧客が

手練れのディーラーを相手に、美人従業員の運んでくるカクテルに舌鼓を打ちながら、

ブラック・ジャックやバカラに興じ、子どものように一喜一憂する、そんなところか。

 しかし、そんな牧歌的な風景はとうにカジノの片隅へと追いやられ、花形の座は

スロット・マシンへと明け渡された。今や業界収益の8割以上をマシンが稼ぎ出す。

 ミイラ取りがミイラに。ラスヴェガスの観光地化の雇用を求めて流入した人口は、

いつしかマシンの「リピート・プレイヤー」と化した。ミシュランの星をどれだけ

かき集めても、売上においてマクドナルド一社にすらかなわぬように、一時の余暇で

カード賭博に勤しむに過ぎない富裕層のレジャー客を彼らはたちまち駆逐した。

そして口を揃えて言う。

「私は勝とうとしてプレイしてるんじゃないんです……プレイしつづけるため――

ほかのいっさいがどうでもよくなるハマった状態、〈マシン・ゾーン〉にいつづけるため」、

彼らはマシンにのめり込む。彼らは決して賭け金を取り戻すことを目的とはしない。

商取引の一様式、彼らは金で〈ゾーン〉を買う、たとえ末路に破綻が待とうとも。

 

「本書は、〈マシン・ゾーン〉の探検に乗り出す。〈ゾーン〉が出現する場所として、

あるいは〈ゾーン〉が逃避を求める場所としての、物質的、社会的、政治経済的

環境という、より広い世界の探検に乗り出すのだ。構造的戦略、テクノロジーの能力、

感情的状態、文化的価値観、人生経験、治療技術、規制の進め方といったものが、

どんな動的回路となって、ギャンブラーが自制心を失いギャンブル産業が利益を

得ようとする中間地帯を生むような状況をつくっているのか?」。

 

「自然が私たちに与えた配線は、コンピューター・ゲームの装置を予測していな」い、

マシンのもたらす相互作用、依存メカニズムが本書の主題の一つである以上、

ある種の誤読とは知りつつも、以下のような断言をためらわせるものは何もない。

 仮にマシンやパチンコを奪ったところで、人々が向かう先はソシャゲか、ドラッグか、

アルコールか、宗教か――いずれにせよ、〈ゾーン〉への渇望が衰えることはない。

本書がギャンブル依存症をめぐる覚え書きを超えて、忘我を求めずにはいられない

歴史の終焉をめぐる病理に関するテキストである点に疑いの余地はない。

 

「ラスヴェガスはアメリカの鏡なのか手本なのかという議論につきまとうのは、

ラスヴェガスを人間の創意と高度テクノロジーによって姿を変えていく驚異の

街と見るか、それとも消費者資本主義のディストピアと見るかという問題だ」。

 その設計には人間工学の粋が具現化される。

「途切れることなく続く曲線状の通路以上に重要なものはない」。

「カジノの客は『直角に曲がることを嫌う』……なぜなら『歩くスピードを落として、

スロットマシンがある通路へ直角に曲がるには覚悟が必要』だからだ」。

 そもそも「カーブはカジノの敷地の外から始まっていなければならない。

……あるカジノでは、エントランスに続く通路の曲がり角を直角からわずかに

曲線上にしただけで、……入ってくる歩行者の割合は、それまでの3分の1から

3分の2近くまで跳ね上がった」。

 この原理はそのまま最先端のショッピングモールに適応される。

「プレイヤーには、“人間として可能な限り長く”マシンの前にいてもらう、それが

彼らを負けさせる秘訣です……重要なのは、彼らをシートに座らせ、そこに

釘付けにすることです……だから私は、お客の快適さを第一に考えています」。

 だから例えば照明や仕切り、BGMなどのデザインを通じて、「プレイヤーを

外界と隔絶することで『プレイヤーは気が散ることなく、自分だけのゲーム環境に

どっぷり浸れる』」。翻って解放感を強調すれば、回転率は自ずと高まる。

 この設計思想が例えばフード・マーケティングと軌を一にしないはずがない。

 

「『知識は力であり、それがどこよりも顕著なのは、ギャンブル業界ではないだろうか』

……数々の革新的な調査やマーケティングがまずカジノで活用され、あとになってから

ほかの領域にも取り入れられていった――空港、金融取引立会場、ショッピングモール、

保険代理店、銀行、国土安全保障のような政策などに」。

 ビッグ・データの生み出す〈ゾーン〉が、さらなる〈ゾーン〉への逃避欲求を煽る。

いみじくも「リピート・プレイヤー」が〈ゾーン〉を望むのは、リピート可能な世界が

直視に堪えないからにほかならない。リアルなど、既存のデータセットを通じて

量産可能な商品に過ぎない、そんなあからさまなファクトに基づく、モノからコトへ、

体験型マーケティングの終着点、再帰性の終着点は至るべくして〈ゾーン〉に至る。

菊とギロチン

  • 2019.07.03 Wednesday
  • 22:07
評価:
ジグムント バウマン
筑摩書房
¥ 1,188
(2017-12-07)

「わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。安心は、

幸福な生活を送るのになくてはならないものである。しかし、わたしたちが

現に住んでいる世界では、ますます提供が難しく、保証をためらうものとなっている。

コミュニティは、杳として行方が知れず、わたしたちの手からするりと逃げていって

しまうか、ばらばらに壊れたままである。というのも、今日の世界では、不安のない

生活という夢の実現のために努力するようわたしたちを駆り立てるが、そういう

やり方では目標の実現に近づくことはできないからである。努力すればするほど、

不安は和らげられるどころか高まるばかりで、その結果わたしたちは、夢見ては、

トライし、しくじり続けるのである」。

 

「『コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる』。……すなわち

それは、『生まれながらの故郷』と〔人々の間で〕伝えられるものの代用品であり、

外の風はいかに冷たかろうとも温かさを保つサークルの代用品なのである。これらは

二つとも、急速に民営化され、個別化されるとともに、急激にグローバル化する

世界のなかで、手に入らないものである。手に入らないからこそ安心して、実用に

耐えるかどうかを気にするまでもなく、安全で信頼できる、居心地のよい避難所として

想像されるし、またそれゆえ熱望されるのである」。

 

「剥奪に関する不満は、かつては、さまざまなカテゴリーの人々が自分たちのことを

不平等な状態にあると思っているという理由だけではほとんど生じなかった

(それにしても、人類史の大半において反乱が相対的に少ないということは、一つの

ミステリーである)。外部の観察者の目にはいかに不幸で悲惨で不快に映る低い

生活水準であっても、それが長い間そのまま続き、被害者にとって『自然な』状態と

なった場合には、原則として従順に受け入れられ、いかなる反抗も呼び起こさなかった。

貧困者や無産者は、自身の生活のひどさに対してというよりも『締めつけが強くなる

こと』に対して反抗した。……要するに、不快な状態にではなく、慣れて耐えられる

までになった状態が急激に変化することに対して、反抗したのである」。

 

 災害であっても、「共同の行為の価値の低下を阻止したり、その失われた

価値をいくらかでも回復したりすることにいささかも寄与しない。というのも、

どう想像力をめぐらしても、協力の決意を固めることでこのような災害から

逃れられると思い描くことはできないからである」。

 

「貧しい者同士が戦うことほど、豊かな者にとって喜ぶべきことはない。受難者たちが

協定を結んで、自分たちの苦境を生みだしている原因と向き合う可能性がずっと

遠のくためばかりではない。……今日、豊かな者が喜ぶのには、特別な理由がある。

その理由は、グローバルな権力ヒエラルキーのもつ新たな特性に固有のものである。

すでに指摘したように、この新しいヒエラルキーは、撤退の戦略によって維持されて

いるが、この撤退の戦略はと言えば、新しいグローバルな実力者が容易かつ迅速に

移動できるかどうかにかかっている。その際グローバルな実力者は、意のままに、

気づかいなく地域への関与を断つとともに、瓦礫の撤去というイヤな仕事を、

『地域住民』をはじめるとする取り残された人々に押しつけて去るのである。エリートが

自由に移動できるのは、おおかた、地域住民が団結して行動できないことや、

進んでそうしないことのおかげである。地域住民の団結が粉々に砕かれ、かれらが

分かれて属する集団がもろく細かくなればなるほど、憤りは同じく無力な隣人たちとの

戦いに費やされ、団結して行動できる可能性は小さくなる」。

 

 現代日本の定点観測として、そのいちいちが精緻に刺さる。

 そして驚くべきことに、原著の出版が2001年、バウマンの他界は2017年。

 この預言の書に刻まれた微かな希望を拾い集める。

「安心は、異文化間で対話が行われるのに必要な条件である。それなしで、

コミュニティが互いに心を開くことも、対話に乗り出すことも、まずない。対話は、

一つ一つのコミュニティを豊かにするとともに、コミュニティの枠を越えて人間性の

共有をうながす。かくして安心があれば、人類の前途は明るいものとなる」。

 コミュニティが途絶した世界のなかで、「わたしたちは、システムの矛盾に対して、

〔自分の人生経験のなかから〕伝記的な解決策を探しだすよう求められている。

わたしたちは、他者と困難を共有しながらも、自分一人の救済策を探すことになる」。

ただしバウマンは直後に釘を刺す。「この方策は、わたしたちが求めているものを

もたらしそうもない。というのもそれは、不安の根源には手をつけずにおくからである。

さらに言えば、この個人的な機知や技量への後退こそがまさに、わたしたちが

逃れたいと願う不安を世界に注入しているのである」。

 統計偽装をいかに言い立てようとも、「わたし」の給与明細や預金残高の

何が変わることもない。「わたし」の問題はことごとく自己責任として能動的に

引き受けられる。「わたしたち」がもはや失われたからこそ、「個人的な機知や

技量」のほかにもはや道を求めることができない。その「わたし」の連鎖の先に

まだ見ぬ「わたしたち」を作る。MeTooよろしく「わたし」の問題を伝えるべき

「わたしたち」がもはやない、もしくははじめからない、のだから、「わたし」は

話の通じる別の「わたし」を見つけるしかない。至ってロジカルに説明可能で、

そして行き着く先は破綻を極める全体主義の狂気に抗うに、この隘路の他に

希望の種がどこに転がっているだろう。

「詩は絵のように」

  • 2019.05.31 Friday
  • 22:21

 記憶術の「核心をここでごく単純化して述べれば、心の中に仮想の建物を建て

(=器の準備)、そこに情報をヴィジュアル化して順序よく配置したうえで(=情報の

インプット)、それらの空間を瞑想によって巡回してゆく(=取り出し)――たった

これだけである。……さて、西欧における記憶術の歴史を大まかにまとめると、

次のように整理できる。/紙の調達が不自由だった古代世界において、主に長大な

弁論を暗唱するために開発された素朴な記憶術は、中世にはやや下火になりつつも

キリスト教の影響をうけて独自の変容を遂げる。やがてルネサンスあるいは初期近代

15~17世紀初頭)と呼ばれる時代に華麗な復活を遂げたが、そのあと忽然と

姿を消す。本書が主なターゲットとするのは、ルネサンス期に絢爛と咲き誇った

記憶術の知られざる歴史である」。

 

 本人に言わせれば、「今や、我が言葉は/私が記憶しているわずかなものを

表すのにさえ、/乳首を舌で舐めて濡らす幼児の言葉より至らぬだろう」。

ただし歴史は、このルネサンスの到来を告げた巨匠が、ホラティウスの言、「詩は

絵のように」を体現したことへの称賛を絶やすことを知らない。地獄にはじまり、

煉獄を経て、天国へと至る、『神曲』の鮮烈なイメージの伝播を例証する存在の

最たるひとりにコスマ・ロッセッリなる神学者がいる。この人物、記憶を収納する

「仮想の建物」(ロクス)としてなんとかの詩聖の世界を取り込んでしまったのだ。

 そもそもキリスト教の教義において、地獄とは無秩序の換言に他ならなかった。

しかし、『人工記憶の宝庫』において世界観は一掃される。イメージを配置するに

その背景たるロクスが秩序立たねば、どうして記憶の混沌が避けられようか。

ロッセッリが参照したのは『神曲』だけではない。アリストテレス、聖トマス――

ロクスはそのことごとくが典拠を持った。テキストがイメージ化を通じて忘却に抗う、

いみじくも彼のロクスそれ自体が記憶術の集大成をなしていた。

 古典を重ねたその先で、何もかもが記憶を通じて統一された。それはあるいは、

かのダンテ・アリギエーリでさえもまみえることはなかったかもしれない世界。

 

 イメージから記憶へ、そして、記憶からイメージへ。

 本書の持つ豊穣は、この還元作業の孕むインフレーションの蜃気楼でしか

ないのかもしれない。たとえ叙述が記憶術の範疇を逸脱していたとしても、

それは何ら問題にはならない。なぜなら、すべてことばは記憶へと返るから。

記憶について論じることがすべて論じることへと展開しようとも、それを飛躍とは

呼ばない。サルは現実を生きる、ヒトは空想を語る――イメージの中を住まうこと、

それ自体がヒトのヒトたる所以なのだから。

 奇しくもimageの語源を遡ればimitationと同じ。文字通りに平板、一枚の

タッチパネルをもって一切が表示可能な現実に正視に堪えるものなどない。

だから人は記憶を通じて似姿の世界を漂う。何もそのイメージの壮大を語るに

ボルヘスよろしくバベルの図書館を構想せずともこと足りる。

 筆者に倣い『三四郎』より引用する。上京する車中での一コマ。

 

  すると男が、こう云った。

  「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、

  三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

  「日本より頭の中の方が広いでしょう」

遺書。

  • 2019.05.24 Friday
  • 22:56
評価:
ギャヴィン・フランシス
みすず書房
¥ 3,456
(2018-07-18)

「『エッセイ』ということばは、『試行』や『企図』を意味する語源から来ていて、

本書中の章それぞれに、人体のたったひとつの部分を、あまたあるうちの

たったひとつの視座から探検する企図があります。……医療を仕事にして

きましたが、医師として働くのは、人間が経験することの総覧を見るようです

――毎日のように思い知らされるのです、わたしたち一人ひとりの脆弱さと

強靭さを、祝賀とともにわたしたちが内にたたえる落胆を。クリニックを開業

するのは、患者さんの身体といっしょに人生の風景を眺める、冒険旅行に

出かけるのになぞらえられるかもしれません。よく知っている地形に見えても、

往々にして分け入った小道が開けて、日々、新たなパノラマをのぞくことに

なるのです。臨床医学とは、たんに患部と患者の話にまつわる旅である

だけではなく、人生の可能性の探検行でもあるのです。人間を冒険する

ことなのです」。

 

 本書の叙述は、医学的な知見や古典からの引用と筆者が実際に立ち会った

エピソードを組み合わせる仕方で進められる。言ってしまえば、他人の身体で

起きた他人事の極み。なのにこの医療版『風景と記憶』、不思議とわがことへと

引き寄せられる。もっとも冷静に考えれば当然のことか、生殖器はともかくも、

基本的に各人が備えるパーツをめぐる話なのだから。凍りつく。例えば「顔」。

「顔の筋肉の発達ぶりが、それぞれの生前のありようをどこかしら示している。

いちばん違いが現れるのは大頬骨筋と小頬骨筋、つまり口角を引っぱって

笑顔をつくる筋肉。頬骨筋が分厚くて輪郭もはっきりしていると、笑いの絶えない

人生だったのが伝わってくる。しぼんでいて紐状になっていると、つらい年月を

送ったのだろう。……著しく発達した皺眉筋は、絶え間のない怒りでしかめた眉

……前頭筋は、恐怖や動揺で眉を上げるのに使う筋肉で、よく額にできるしわ、

いわゆる五線譜の原因でもある。……口角下制筋は、口角から下に伸びていて、

口をとがらせて不満顔をするのに使う。顔をしかめるのに使う筋肉は発達しすぎて、

顔つき全体が暗くなってしまった献体も、一度ならず見たことがある」。

 

 熱を帯びた遺灰が一目で判る仕方で祖母であると証するものがあるとすれば

それは骨折に際して埋め込まれた人工股関節だった。

「火葬場でご遺族は、故人のからだの金属部分を返してもらいたいか、再生利用を

望むかを訊かれる」。

 数年前にそんなことを問われたことがあった、もっとも選択肢は骨壺に収めるか、

斎場で引き取るか、だったけれど。なぜかスタッフが私を見る。土に還らぬものを

入れても仕方ないからと処分を依頼した。

 その後のことなど、本書を読むまで想像だにしなかった。

「人工の腰や膝や肩には、合金のなかでも最高性能のものが使われていることが

ある。チタンとクロムとコバルトの合金は、高齢者を晩年まで動きやすいからだにして

自立させてくれたあとは、火葬場で集められ、溶かされ、精密部品に変えられて、

人工衛星や風力タービンや飛行機のエンジンの機構になる」。

 

  骨埋める場所なんて いらないわ